1453年5月、日本では室町幕府、8代将軍足利義政の時代。
ヨーロッパとアジア、地中海と黒海を結ぶ地に歴史を刻んだ大ローマ帝国末裔の都が、滅亡の時を迎えようとしていた。
文=荒川佳夫(歴史群像2017年10月号)
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3月下旬にエディルネを発ったメフメト2世は、途中各地からの軍勢と合流し、4月、コンスタンティノープル城外に達する。画は戦闘開始を前に集結したメフメトとオスマン軍。右にウルバンの作った巨砲も見える。
現在のトルコ最大の都市で、アジアと欧州にまたがって発展するイスタンブールが、かつてはコンスタンティノープルと呼ばれていたことはよく知られている。その街がトルコの前身であるオスマン帝国によって征服されたのは、一四五三年のことだった。
首都コンスタンティノープルが陥落したことにより、東ローマ帝国=ビザンツ帝国も滅亡するが、一般的にはこの帝国の滅亡をもって、欧州史における中世が終わりを告げたとされている。もちろんそれだけが中世と近世を区切る要因ではないものの、コンスタンティノープルの陥落が一つの時代の終焉を象徴する、大きな事件であったことに違いはない。
ではその街をめぐる戦いはいかにして始まり、どういった結末を迎えたのだろうか。
❖ 変容する東地中海世界
古代ローマ帝国が三九五年に東西に分裂した時、すでにその首都はコンスタンティノープルへと移っていた。遷都が行われたのは三三〇年、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の治世のことであった。それまでビザンティウムと呼ばれていた街は、その時より皇帝の名を冠しコンスタンティノープルと名を改めた。しかし首都のもとの名は人々の記憶に残り、東ローマ帝国は後世、ビザンツ帝国とも呼ばれるようになるのである。
東西分裂時には強大な国家であったビザンツ帝国も、ゲルマン人、スラヴ人、そして西方から迫るササン朝ペルシアやイスラーム勢力によって国土を浸食され、十三世紀末期にはアナトリア(小アジア)の西端とバルカン半島南部を領有するだけとなっていた。
しかしコンスタンティノープルだけは衰退する帝国の中で特別な輝きを放っていた。そこは黒海から地中海、アジア、欧州をつなぐ貿易の中継地であった。各地から集まる物品と人々が、帝国の衰退ぶりとは対照的な繁栄を街にもたらしていた。地中海の利権をめぐって争うイタリア海洋国家のジェノヴァとヴェネツィアも、この街に居留地などの拠点を置いていた。
そのビザンツ帝国の前に、さらなる強敵が現れる。それがオスマン帝国であった。十三世紀のアナトリアではイスラーム化したトルコ人戦士集団が小さな君侯国を数多く打ち立てるが、オスマン帝国も、もとはその君候国の一つだった。十四世紀以降、オスマン帝国はビザンツ帝国の領土を侵食し、その支配領域を欧州にまで広げ始める。一三六〇年代にはビザンツ帝国の重要都市アドリアノープル(エディルネ)を陥落させ、さらにセルビアやブルガリアを服属させた**(下の地図参照)**。
一三七二年には、すでに領土の多くをこの新興勢力に奪われ、周囲を囲まれた状態となったビザンツ帝国も、オスマン帝国スルタン(君主)ムラト一世に臣従を誓わざるを得なくなってしまう。
とはいえオスマン帝国による支配は、他のイスラーム勢力によるそれと同様に、過酷な待遇を強いるものではなかった。貢納と軍役の義務と引き替えに、それまでの宗教や文化を保持することを許されたのである。
オスマン帝国のバルカン半島への進出は十五世紀に入っても続けられた。その時期ビザンツ帝国は、ペロポネソス半島の支配領域を広げようと試みたり、オスマン帝国の後継者争いに介入するなどして自国に対するその影響力を削ごうと画策を続けていた。しかし、そうした行動はオスマン帝国による懲罰遠征を招き、コンスタンティノープルも幾度かオスマン軍に包囲されることとなった。だが三方を海に囲まれ、陸側は三重の防壁に守られた街は難攻不落であり、オスマン軍の軍門に降ることはなかったのである。
十五世紀半ば、オスマン帝国はハンガリーへの侵攻を開始していた。しかしアナトリアで策動する反オスマンのカラマン君侯国に対処する必要に迫られたため、一四四四年、ハンガリーとの間に一〇年間の休戦条約を結ぶ。その後、ときのスルタン・ムラト二世は、息子への権力委譲を宣言し、スルタン引退を表明する。代わって権力の座に着いたのが、コンスタンティノープルの命運を握ることになる人物、メフメト二世であった。


❖ 若きスルタンの苦悩
メフメトがスルタンの座に就いた時、彼はわずか十二歳の子供だった。幼い頃から気難しい性格で、勉学よりも武芸を好む、勝ち気な人物だったという。それ故に補佐役に付けられた慎重派の大宰相ハリル・パシャとは、就任当初から対立することになった。さらに宮殿の外からも難事が迫っていた。経験不足の少年スルタンの就任は、周辺キリスト教諸国の反オスマン活動を活発化させ始めたのだ。
オスマン帝国の脅威に直面していたビザンツ帝国の皇帝ヨハネス八世は、かねてよりローマ教皇や欧州諸国に対し十字軍の派遣を要請していた。その呼びかけに応え、ポーランド王兼ハンガリー王ウラースロー一世のもとに結集した約二万五〇〇〇の軍勢(ヴァルナ十字軍)がオスマンとの休戦条約を破ってブルガリアへと進軍したのは、一四四四年十一月のことだった。この国家の危急にメフメトでは対応できないと判断したハリル・パシャは、ムラト二世の再出馬を要請する。ただちにムラトは軍勢を率いて北上し、ヴァルナの戦いでキリスト教連合軍を討ち破ったのだった。
この後しばらくの間、宮殿の内部訌争等の山積した問題を解決するために、ムラト二世が引き続きスルタンの座に留まり、メフメトはマニサの街に引き籠もることになった。しかしこの辛苦の時間が、メフメトを大きく成長させることになる。さまざまな学問や言語を学び、見識を深めたのである。さらにキリスト教連合軍に対しオスマン軍が勝利を収めた一四四八年のコソボの戦いに参陣したのち、アルバニアのクルヤ(クロイア)攻囲戦にも参加するなど、実戦経験も積んでゆく。特にクルヤの戦いでは、オスマン軍が装備する大砲の威力を目の当たりにし、それがのちの彼の戦いに影響を与えることになった。
そうして多くの知識と経験を己のものとしたメフメトが父の死に伴い再びスルタンの座に就いたのは、一四五一年二月のことだった。その際に彼が最初に行ったことは、後継者争いを封じるために弟のメフメトの命を奪うことだった。以来、新スルタンによる「兄弟殺し」は慣例化し、たとえ命が奪われなくとも、新スルタンの兄弟達は一生幽閉されることになるのである。

