共産党軍vs.国民党軍 金門島の戦い1949

共産党軍vs.国民党軍 金門島の戦い1949

台湾海峡の西の砦を死守した国民党軍の奮戦

61 min read

中国共産党との国共内戦に敗北を続ける中国国民党。将来の捲土重来を期して台湾脱出を決断した蔣介石だったが中国人民解放軍は台湾海峡へと触手を伸ばしていた。戦いの焦点となった小島──金門島をめぐる「中国国民党の存亡」をかけた攻防戦の実相。

文=山崎雅弘(歴史群像2021年8月号)

【タイトルバック画像】

激戦地となった古寧頭エリアの入り口に建てられた門。2013年撮影(写真提供:筆者)。


失敗した中国人民解放軍の上陸侵攻作戦

バイデン米大統領の就任式から三日後の二〇二一年一月二十三日、アメリカ国務省のネッド・プライス報道官は、中国が台湾に対して軍事と外交、経済の各分野で圧力をかけ続けていると非難し、バイデン政権が進める同盟国や友好国との協力に「民主主義国家である台湾」との関係を深めることも含まれるとの声明を発表した。

一方、中国人民解放軍は同じ一月二十三日、戦闘機四機、爆撃機八機、対潜哨戒機一機の計一三機から成る編隊を、台湾南西部の防空識別圏(ADIZ)に侵入させた。台湾の防空識別圏に対する中国軍機の侵入は、過去にも発生していたが、多くの場合は二機か三機であり、一三機という規模は異例で、翌二十四日にも一五機の中国軍機が侵入した。

この中国軍機による二日連続の防空識別圏への侵入は、バイデン政権に対する「アメリカが台湾への外交的支援や軍事的な協力関係を強めることを、中国政府は座視するつもりはない」とのメッセージであったと見られている。一九四九年に「中華人民共和国(PRC)」の建国を宣言して以来、北京の中国政府は、台湾も自国の領土であると主張し、自国の主権下に台湾を含めることを国家政策の「核心的利益」と位置づけている。

そして、台湾への軍事的圧力を強める中国軍の動向を注視する、アメリカ軍のインド太平洋軍司令官フィリップ・デヴィッドソン海軍大将(当時)は、この二か月後の三月九日に米上院軍事委員会の公聴会で、「六年以内に中国が台湾に侵攻する可能性がある」と証言した。

このように、現在の東アジアにおいて、中国と台湾の軍事的な緊張は、安全保障面での重要な懸念材料の一つであり、中国軍の台湾侵攻というシナリオ(仮想設定)に基づくさまざまな研究も行われている。だが、総人口が二三五七万人(二〇二〇年)の台湾を、短期の軍事侵攻で完全に制圧して支配下に置くことはきわめて困難であり、それを実現するためには、中国軍には越えなくてはならない高いハードルがいくつも存在する。

その一つが、最も狭い場所でも約一三〇キロの距離を持つ台湾海峡の存在であり、中国人民解放軍は過去に、これほど広い海を越えて他国への上陸侵攻作戦を実行した経験を持たない。より短い距離の、敵軍が守る海岸に対する上陸侵攻作戦では、一九四九年十月に台湾海峡の大陸側から目と鼻の先にある金門島きんもんとうで実行した「金門島上陸作戦」が挙げられるが、この作戦は準備不足と上陸部隊の拙攻により、完全な失敗に終わった。

激戦地となった北部の町の名に因んで「古寧頭こねいとうの戦い」とも呼ばれる金門島の激戦は、ある日本軍人が国民党軍の軍事顧問として関与した(詳しくは後述)ことから、日本でも断片的に(その日本軍人を中心とする形で)知られているが、台湾の歴史においては「大陸中国が台湾侵攻に向かう流れを止めた歴史的勝利」として、重要な位置づけがなされている。

本稿では、この金門島をめぐる中国人民解放軍と台湾(中華民国)の国民党軍の戦いに光を当て、主に台湾側の資料に依拠しながら、中国軍による「着上陸侵攻」作戦と、それが失敗に終わるまでの戦闘経過を振り返ってみたい。

台湾は、台湾海峡を挟んで大陸と対峙する位置にある。大陸と目と鼻の先にある金門島を共産党軍に奪われれば、そこを足掛かりとして共産党軍が台湾へ侵攻する可能性が生じるため、国民党軍としては死守しなければならない重要拠点だった。

中国の国共内戦と国民党の台湾脱出

大日本帝国の降伏と中国国内の対立激化

一九四五年九月二日、大日本帝国の代表者が米戦艦『ミズーリ』艦上で連合国への無条件降伏文書に調印し、第二次世界大戦が終結した。これにより、日本軍に占領されていた広大な中国大陸の領域は、蔣介石を指導者とする中華民国(国民党)の手に取り戻された。

それから一か月後の十月五日、約八〇人の国民党軍が第一陣として米軍機で台湾の台北にある松山飛行場に降り立ち、続いて十月十七日には、台湾北部の基隆港に、国民党軍の将兵約一万二〇〇〇人と、同党の官吏約二〇〇〇人が米軍の艦艇で上陸した。

蔣介石による台湾の領有権主張は、日本軍を共通の敵とする米英両国によって戦争中から認められており、一九四三年十一月二十七日に作成された米英中三国首脳による合意文書(いわゆる「カイロ宣言」)にも「満洲、台湾及び澎湖島など日本国が清国人から『盗み取った』すべての地域を中華民国に返還すること」との文面が記されていた。

蔣介石は、この文書の内容を根拠に、日清戦争の講和条約(下関条約)で大日本帝国に割譲されていた台湾全土を、国民党の支配下に置いたのである。十月二十五日、台湾は正式に中華民国へと併合され、台湾市民の国籍は自動的に中華民国へと変更された。

だが、中国大陸では、中国東北部(旧満洲国)で武装解除した日本軍の武器を押収し、満洲に侵攻したソ連軍からも各種の兵器類や装備品を受領した共産党系の軍勢(戦中の八路はちろ軍と新四しんし軍)が勢力を増しており、蔣介石の国民党と、毛沢東らに率いられた中国共産党の間で、戦後の中国での政治的覇権をめぐる対立が激化していた。

この事態を重く見たアメリカ政府は、米軍のハーレー少将を仲介役として八月二十八日に蔣介石と毛沢東に首脳会談を行わせ、翌一九四六年一月にはマーシャル元帥を委員長とする「軍事小委員会(軍事小組)」を設立して、国共両軍の兵力削減を話し合わせた。その主な内容は、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国政府主席(蔣介石)であること、中国軍の陸上兵力の比率を国民党軍五に対し共産党軍一とすることなどだった。

しかし、毛沢東や周恩来ら共産党首脳部は、国民党に対する共産党の従属という力関係を永続的に固定化してしまうような取り決めを、甘んじて受け入れなかった。同年四月以降、中国東北部で国民党軍と共産党軍の衝突が発生し、その対立はもはやアメリカの仲介では解消不能なほどにエスカレートしていった。