再検証 インパール作戦

再検証 インパール作戦

日本軍最大の敗因は「補給の軽視」ではなく連合軍の「新戦術」にあった!?

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戦後七十余年の今日においても、頻繁にメディアに取り上げられるインパール作戦。日本陸軍の見通しの悪さと、前線部隊を見殺しにする体質が強調されるが、その一半は正しくも、もう一半にはまた別の視点からの史実も浮かび上がる。それは何か?

文 = 古峰文三(歴史群像2018年10月号)

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(写真上)ラバを牽いて渡河中の第二次「チンディット」部隊。背景の写真は、前線部隊に空中補給を行うイギリス空軍の「ダコタ」輸送機。写真(右)は雨期の増水した川に仮設の橋を架けて渡る日本軍部隊。

最悪のイメージで語られる「インパール作戦」

「インパール作戦」は、太平洋戦争でもっとも悲惨な戦いの一つとして、戦後早くから一般にもよく知られている。昭和十九年(一九四四)三月〜七月初めにかけて実施され、日本陸軍は多大な犠牲を払い敗退した。

太平洋戦争において戦死傷者数でこれを上回る戦いもあり、しかも一般国民を巻き込むことのないインド・ビルマ国境の山岳地帯で戦われた局地的な作戦だったにもかかわらず、インパール作戦はより醜悪な印象を与える。その理由は、この作戦が押し寄せる敵に対しての邀撃戦ではなく、積極的な意図をもって野心的に立案された攻勢計画だったことにある。つまり、勝算の下に完敗を喫したからである。

そして実際に作戦に従事した第三十一(「烈」)師団、第十五(「祭」)師団、第三十三(「弓」)師団からなる第十五軍の軍司令官、牟田口廉也むたぐちれんや中将について伝えられる奇矯な性格、強引な言動、無責任と見える行動は作戦そのものへの嫌悪感を掻き立て、さらに現代社会に投影されて語られることも多い。

高木俊朗『インパール』『抗命』『全滅』からなる「インパール三部作」は、この作戦で倒れた将兵と戦闘に際して露呈した日本陸軍の醜悪な行動を描き、優れた一般向けドキュメンタリーとして現在でも読み継がれ、インパール作戦に関する印象の原型となっている。

だが、高木のこれらの著作における、この作戦の立案過程とその推移についての検証は十分とは言い難いものがある。

「インパール三部作」はコヒマに孤立した第三十一師団を『抗命』で描き、五月末以降の作戦最終局面における三十三師団担当方面への増援部隊の苦闘を『全滅』で描いているが、それまでの進撃と停滞膠着に陥るまでの描写は比較的あっさりとしている上に、インパール作戦の持つ戦略的側面についても深く検証されてはいない。

また、この三部作に限らず、無視されたと言われる補給問題についても、インパール作戦全体の兵站計画がどのようなものであったかが検討されることも少ない。

そして「制空権が無い」「圧倒的な兵力差」として片付けられることが極めて多く、「航空は頼りにせず」との牟田口軍司令官の言葉を真に受けて、方面軍直轄の重要作戦であるはずの日本側のインパール航空作戦はそれ以上に注目されることがない。

インパール作戦の陰惨な面は描いても描き切れない深刻なものではあるものの、日本側の勝算はどのような論理で見出されていたのか。そして敵であるイギリス軍は日本軍の攻勢計画をどのように受け止め、何に悩み、何に苦しんだのか。

そして最も重要な点として、この作戦はどのような経験と計算によって勝利を見込まれ、その勝利の希望を打ち砕いたものは、本当は何だったのか。

撤退路上に餓死者、病死者が続出し「白骨街道」と形容されるこの悲惨極まりない作戦も、それが一つの戦いである限り、両軍の間には何らかの形で勝敗を懸けた、目論見のシーソーゲームが存在したはずである。

従来触れられることの少なかった日本側の戦略、それに対するイギリス軍の認識と行動、そして語られてこなかったインパールでの空の戦い、といった要素について、日本側の兵站計画、航空作戦、そして連合軍側の記録を再検討することで、インパール作戦の全体像がより明確に見えてくるだろう。

周辺を山岳地帯に囲まれたビルマの様子と、インパール作戦前後の概況。援蔣ルートの陸路と空路、アラカン山脈以西のイギリス軍後背地、インパールでの敗退以後に日本陸軍部隊が殲滅されるビルマ北部戦線の位置関係等を一枚に示す。

ビルマの戦略的価値

援蔣ルート

日本陸軍には当初、ビルマへの本格的な侵攻作戦を実施する構想はなかった。

マレー半島を南進してシンガポール占領を目指す攻勢の側面を固める意図で、タイとビルマ間の国境を越えた限定的な作戦を行うのみで、ラングーン占領からビルマ奥地の制圧に至る作戦は計画されていない。

こうした原構想を本格的な侵攻へエスカレートさせたのは、参謀本部作戦課長・服部卓四郎中佐だと言われている。

シンガポール攻略の観点からはビルマ全域の占領に意義はなかったが、対英米戦ではなく、対中国戦にとってビルマは極めて重要だった。

中国大陸沿岸を日本によって封鎖された蔣介石政権は、大陸沿岸部から重慶方面への月間六万トンの物資輸送が遮断され、存続の危機に瀕していた。

蔣介石はルーズベルト大統領に対して援助を求め、蔣介石に対する援助物資を日本軍の制圧地域を避けて送り届ける迂回ルートが開拓された。日本側が「援蔣ルート」と呼ぶこの補給路は、日本の中国南部侵攻、北部仏印進駐、南部仏印進駐によって遮断と南下が繰り返され、ビルマを経由する新たな「援蔣ルート」のみが残った。

昭和十六年十二月の太平洋戦争開戦時には、ラングーン港から北へ向かい中国奥地に続く道路、陸路「援蔣ルート」上を、アメリカ政府によって送り込まれた民間人顧問団が管理するアメリカ製トラックの群れが、連日、ビルマ中国国境の峠道を北上していた。

しかし、この陸路は国民党支配地域でありながらも各地に割拠する軍閥による勝手な通行税徴集と物資の横領に苦しめられ、しかも物資だけでなくアメリカ製トラックそれ自体がこうした略奪行為の目標となっていた。

こうした損失を避けて、重慶の蔣介石政府の下に直接、物資を届ける手段として開拓されたのが空路の「援蔣ルート」で、ビルマ北部に建設されたミイトキーナ飛行場を起点に、民間航空会社による中国奥地への物資の空輸が開始された。

こうして、「援蔣ルート」は空路と陸路の二本立てとなった。

服部卓四郎中佐はこの「援蔣ルート」に注目し、ビルマ経由の陸路、空路の遮断による蔣介石政権の崩壊を意図し、ビルマ全域の占領を提案し、南方軍の作戦に組み入れられた。

日本軍の侵攻によって昭和十七年五月にラングーンが陥落し、空路の起点となっていたミイトキーナも占領され、ビルマ戦線の連合軍は北部山岳地帯奥地に追い込まれた。その結果、蔣介石政権は「援蔣ルート」が陸路、空路ともに遮断されるという危機的事態を迎えた。

危機に瀕した蔣介石はアメリカに対して新たな空路による物資輸送の強化を切望し、インドのアッサム地方に急造された飛行場群からヒマラヤ越えの厳しい航路で中国に向かう空輸ルートが設けられている。

輸送機の飛行性能ぎりぎりの高高度飛行となる空輸作戦は「Hampハンプ」の通称で呼ばれ、国民党軍だけでなく中国大陸に展開したアメリカ陸軍航空軍への燃料、部品の供給をも一手に担う生命線となっていた。

しかし、「Hamp」による空輸量はヒマラヤ越えの厳しい航路と輸送機不足によって月平均五〇〇トン程度に留まり、中国大陸での対日戦を攻勢に転じさせるには遠く及ばない。

こうして蔣介石とアメリカにとって、ビルマ戦線で戦い続ける目的は何を置いても陸路「援蔣ルート」の再開となっていった。

単純にビルマの奪回のみを意図し、蔣介石への援助に興味を抱かないイギリスと、「援蔣ルート」再開を最優先と考えるアメリカとでは、ビルマ戦線における戦略構想が大きく異なっていたのである。

イギリス側から見れば、インパールはインド・ビルマ国境を越えたビルマ奪回作戦の重要拠点ではあったが、仮に山間部の小都市でしかない同地が陥落したとしても、インド全体の防衛計画に大きな影響はなかった。

インパールからインド内陸部へ向かうには、北へ向かいコヒマを経由する長く細い山道を経るしかなく、日本軍のカルカッタ侵攻などにはまったく現実味がなかった。

しかし、コヒマの北西に位置するディマプールは違った。ここは中国戦線を支える長大な援蔣ルートの要所だったからである。

アメリカからの物資を中国に送り届ける援蔣ルートは、日本軍の空襲圏内にあるカルカッタではなく、遠くカラチを揚陸点としてそこから延々と一メートルゲージ(幅)の狭軌鉄道で、ディマプールを経由してアッサム地方の飛行場群に運ばれ、輸送機による空路で中国奥地へと続いていた。

ディマプールがもし陥落すれば、アッサム地方への物資輸送路は遮断される。

そしてアッサム地方の飛行場群を移転後退させることは不可能だった。

ヒマラヤ越えの高高度飛行を伴う空路援蔣ルートは主力輸送機C-47の行動を著しく制限しており、航路の延長は考えられない。

昭和十七年のビルマ攻略時に陸軍中枢が指示したアッサム地方への侵攻作戦「二十一号」作戦は当時、牟田口中将自身が補給への不安から実施を拒否した経緯がある。

その牟田口中将が翌年以降にインパールとディマプール攻略に異常な執念を持った理由は、インド領内への本格的侵攻などではなく、自ら援蔣ルートの完全切断を実現し戦争全体の状況を変え得る作戦としてインパール作戦を認識していたことによる。

では、昭和十七年に補給問題を理由にアッサム地方侵攻を拒否した牟田口中将はなぜ変心したのだろうか。