モンゴル帝国帝位継承戦争

モンゴル帝国帝位継承戦争

世界史の転換をもたらしたクビライの野望

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建国の英雄チンギス=カンの死後も三代のカアンの治世下で拡大を続けたモンゴル帝国。しかし、1260年にカアンの後継者を巡ってモンゴル同士の大規模な内戦が勃発する。いわゆる大元と四ハン国の分立契機となった後継者戦争の経緯を概観する。

文=山上至人(歴史群像2021年6月号)

【タイトルバック画像】

写真中段)上都のクビライ像。背景)モンゴル騎兵。

【蒼き狼たちの後継者戦争】

一二〇六年春のチンギス=カンによるモンゴル高原の統一によって成立した新興の軍事集団「大モンゴル国イェケ・モンゴル・ウルス」、いわゆるモンゴル帝国は、チンギスの死後、オゴデイ、グユク、モンケの三代を経た半世紀間で、西は東欧、アナトリア半島、地中海東岸から、東は長江以北の漢地、朝鮮半島に至るまでの広大な地域を勢力下に置くという、文字通りの世界帝国となっていた。

ところが、そのモンゴルは、突如膨張を停止する。一二六〇年にモンケ=カアンの死を契機に勃発した帝位継承を巡る大規模な内戦の結果、クビライがカアンとなり、東方では俗に「元朝」として知られる大元ウルスダイオンウルス、西方ではキプチャク・ハン国の名称で知られるジョチ・ウルス、同じくイル・ハン国の名で知られるフレグ・ウルスなど、チンギス一族をカンに戴く国々がユーラシアに分立することとなった。

本稿ではチンギス死後から帝位継承戦争に至るモンゴル帝国の拡大とその過程で内在した内戦の原因を概観しながら、世界史の転換点ともなったモンゴルの「後継者戦争ディアドコイ」の原因と経過を見ていきたい。

世界を打ち開く者

【モンゴルの国制】

モンゴル高原を統一したチンギスは四つの幕営オルド※注1からなる宮廷機構の整備に努め、自身と幕営を護衛する親衛隊ケシクを拡大し、「万の親衛隊トゥメン・ケシクテイ」を設置した。そしてチンギスは麾下にある全遊牧民を匈奴以来の遊牧国家の伝統といえる「千人隊ミンガン(千戸)」と呼ばれる十進法に基づく軍事・行政単位に再編した。

当初計九五個(後にキタイ※注2軍団を加えて一二九個になる)編成された千人隊は、百人隊ジャウン(百戸)、十人隊アルバン(十戸)からなり、戦時にそれぞれ一〇〇〇人、一〇〇人、一〇人の兵士の供出を基準に設置された。各長は行政官であるとともに戦時には各級部隊の指揮官を務めることとされ、いわばモンゴル帝国そのものが一〇万もの騎兵から組織された巨大な軍隊だったのである。

千人隊の長には僚友ネケルと呼ばれたチンギスの股肱の臣たちが封じられ、遊牧民と遊牧地を支配する領主ノヤンとなった。ノヤンはカン(カアン)の選出や遠征作戦など帝国の重大事項を決定する大会議クリルタイに参加する資格を持ち、帝国の支配者層を形成した。彼らが領する各集団の規模や内容は様々であり、チンギスといえどもノヤンたちの領民ウルスに直接の支配を及ぼすことはできなかった。いわばモンゴル帝国は千人隊を基幹とする複数の遊牧集団がカンの統令の下で結集する巨大な政治的連合体であった。

モンゴル語で「国」や「国家」を示す「ウルス」とは本来「人々の集団」を意味し、遊牧国家にとって支配の根幹が土地ではなく、人間そのものにあったことを如実に示しているが、それはモンゴルが広大な領域と膨大な数の定住民を支配下に置く大帝国となった後も基本的には変わらなかった。

チンギスは既存の遊牧集団を解体し、自分を頂点とする指揮系統に再編成したが、千人隊は旧部族・氏族を基礎に編制されていた。オイラトやオングトら有力な部族集団は、解体されずにそのまま複数個の千人隊となり、兄弟・親子など一族で複数個の千人隊を領するケースもあった。いわば千人隊は一〇〇〇人の騎兵の供出という軍役賦課の規格として機能していた。近世日本では、独立して作戦行動を行える部隊編制単位「そなえ」を単独で編成可能な最低基準である一万石以上の領主が大名と規定されたが、それに類似するものと理解するのがよいかもしれない。


注1:モンゴル系やテュルク系の遊牧民の君主の帳幕のこと。具体的には帳幕に付属する婦女子、家畜などすべての動産を含めた君主の財産の一式を指し、宮廷や後宮の意味にも使われる。日本語訳では「幕営」のほかに「行宮」「宮帳」と表記する。

注2:キタイ人(契丹人)はモンゴルと言語・習慣が近く、ウィグルやカルルクといったテュルク系諸集団とともに「モンゴル」の構成員に組み込まれた。

さて、突厥テュルクをはじめとする遊牧国家では、伝統的に支配下にある遊牧集団を三つに分けて政治・軍事の組織としたが、チンギスもそれを踏襲し、モンゴル高原の東西の境界に自身の諸子と諸弟を左右両翼に配置して、カンの権力から半ば自立したウルスを形成させた。

具体的には、右翼バラグンガルとなる西方のアルタイ山脈方面には長男ジョチ、次男チャガタイ、三男オゴデイに各四個、計一二個千人隊を与えて配置し、左翼ジェグンガルとなる東方の大興安嶺カラウン・ジドゥン方面には次弟カサル、三弟カチウン、末弟テムゲ・オッチギンにそれぞれ一個、三個、八個の計一二個千人隊を与えて配置した。

また、チンギス自身が直轄する中央ウルスコルンウルス中軍ゴル)も「四駿・四狗ドルベン・クルート ドルベン・ノガイ※注3」のムカリ指揮下の左翼万人隊トゥメン、同じくボオルチュ指揮下の右翼万人隊に二分され、チンギスを護衛するケシクを中心に三極構造をとった。第一次対金戦争後にチンギスは、ムカリに「国王」の称号を授けてチンギス諸弟の左翼三ウルス(東方三王家)とともに中国方面の計略を担当させたが、ムカリには後に「左手の五投下ごとうか※注4」と総称される五つの有力部族と、契丹キタイ人・女真ジュシェン人からなる新編の二〇個千人隊を付属している。

遊牧社会では巻狩りなどで得た獲物は首長によって参加者に公平に分配されるが、その原則は戦争でも同様で、戦利品や捕虜は作戦に従事した将兵に公平に分配された。征服戦争で得た領民と牧草地も諸王・功臣に分与されたが、中央アジアの征服地はその主力を担った右翼の諸子ウルスに与えられた。イルティシュ川上流域を根拠地としていたジョチ・ウルスにはバルハシ湖北岸からアラル海方面に広がるカザフ草原、チャガタイ・ウルスには西遼の故地イリ地方、オゴデイ・ウルスにはジュンガル盆地のエミル・コボク地方が与えられ、西方に領域を拡大している。


注3:モンゴル建国の功臣として知られる8人のチンギス最側近を称えて言う語。「4頭の駿馬(四駿)」はムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクル、「4匹の狗(四狗)」はジェベ、ジェルメ、スブタイ、クビライからなる。

注4:ジャライル部(ムカリ国王家)、コンギラト部(コンギラト駙馬家)、イキレス部(イキレス駙馬家)、ウルウト部(ジュルチェデイ家)、マングト部の五つの部族集団からなる。ムカリ指揮下の華北駐屯軍を起源とし、チンギス直轄領を引き継ぐトゥルイ・ウルスから独立した後も一体性を維持し続けた。

1205年からの三次にわたる攻勢で西夏(タングート王国)を従属下に置いたチンギスは、「森林の民」と呼ばれたオイラトやキルギスらモンゴル高原西方の部族を平定し、西遼(カラ・キタイ)の属国であった天山ウィグル王国・天山カルルク王国を帰順させ、1215年に金の首都・中都(燕京)を陥落させてモンゴル高原全域と黄河以北の地を獲得した。1218年には西遼に侵攻して東トルキスタン全域を支配下に収め、翌1219年からの中央アジア遠征でシル川下流のホラズム地方からイラン高原に至る広大な領域を支配していたホラズム・シャー朝を征服し、アム川とシル川の間に位置するマー・ワラ―・アンナフル地方、イラン東部のホラーサーン地方という肥沃なオアシス地帯を支配下に置いた。

【オゴデイ即位】

一六二七年八月、チンギスは西夏せいか降伏の直前に急逝したが、よく知られるように、遊牧社会には相続に関して長子相続のような定まった制度はない。一般に子供は成人すると家畜や隷属民などの財産を分与されて独立し、親の財産は最後まで親許に残った末子が相続した。そのため、家督の継承は実力主義であっても、末子は親の財産の象徴である「炉」を守る「火の主人オッチギン」として特別な立場にあった。チンギスが諸子・諸弟のウルスを分立させたのもそうした遊牧民の慣習に由来し、チンギスが直轄した中央ウルス、モンゴル全軍の八割に相当する一〇一個の千人隊も末子トゥルイが相続した。

トゥルイは幼少時から英邁の誉れ高く、父チンギスの膝下で各地を転戦した。「志が高い者、敵を征すると欲するならばトゥルイの元へ参るが良い」と父に評されるほど武勇にも優れており、衆目一致する後継候補として二年の間、帝国の政務を代行したのだが、実際にカンに選出されたのはトゥルイではなく、三男のオゴデイであった。

元朝秘史げんちょうひし』はオゴデイ即位の経緯を次のように記している。長男ジョチと次男チャガタイはかねてより険悪な仲にあったが、征西作戦の直前にチンギスの面前で後継者問題を巡って口論となった。重臣になだめられて冷静になったチャガタイは温厚な人柄を理由にオゴデイを後継に推薦し、ジョチもそれに同意したため、チンギスはオゴデイを自身の後継者に指名したという。

各編纂史料はトゥルイが父の遺命に従ってカン即位を固辞したと記すが、経験と実力がものをいう遊牧社会では生前の取り決めに効力はほとんどない。対外獲得戦争の主催者となるカンには、構成員間の戦利品の公平な分配や仲裁を行う調整能力が求められ、それに足る実力者がモンゴルの全支配層が参加するクリルタイでモンゴルの総意として選ばれるのが原則である。

長兄ジョチは父チンギスに先立って没しており、代わって右翼ウルス筆頭となっていたチャガタイも峻厳な性格が災いして人望に乏しかった。そのため、チャガタイは東方三王家筆頭のテムゲ・オッチギンと組み、四個千人隊のウルスの主に過ぎないオゴデイを擁し、帝国一の実力者トゥルイのカン即位を阻んだというのが真相であろう。