積極主動の権化 参謀 辻政信の生涯

積極主動の権化 参謀 辻政信の生涯

その戦略・作戦の是非

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ある人には作戦の神様、ある人には絶対悪。当時から一向に評価の定まらぬ参謀・辻政信。その生い立ちと軍歴を、最新研究をもとにふりかえるとともに、彼の指導した戦略・作戦はいかなる価値を持つのかを再検討する。

文=長南政義(歴史群像2021年8月号)

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辻政信(中佐時代)


はじめに 毀誉褒貶定まらぬ参謀

政信まさのぶは第二次世界大戦の日本軍を代表する参謀である。昭和陸軍は下剋上や幕僚統帥が盛んであったこともあり、石原莞爾いしわらかんじ、瀬島龍三りゅうぞう八原博通やはらひろみちなどに代表されるように、指揮官よりも参謀に人々の注目を集め議論の対象となる人物が多い。その中で大戦中の日本陸軍で抜群の知名度を誇る参謀が辻である。

だが、辻の評価となると、「作戦の神様」と称賛する者と、「地獄からの使者」(村上兵衛)や「絶対悪」(半藤一利)と酷評する者との両極端に分かれ、いまだに毀誉褒貶定まらないのが実情である。だが、辻の評価が分かれるのは今に始まったことではない。辻の考科評定で、東条英機が「将来国軍の至宝たりうる人物」と書く一方、青木重誠しげまさが「協調性に欠け、自我が強烈で、将来、中央部の要職には、絶対に充用してはならない」と書いたように、辻の評価は当時から二分されていたのだ※注1

神か悪魔か。辻の実像はその中間にあるはずだ。そこで、本稿では、史料と最新研究に基づいて、「参謀」辻の実像を等身大で評価してみたいと思う。


注1:東条は、辻が参謀本部附時代の参謀本部第一課長として、青木は辻が第十一軍司令部附時代の第十一軍参謀長として、辻の上司であった。

模範的青年将校

生い立ちとその影響

辻政信は、明治三十五年(一九〇二)十月十一日、石川県江沼郡東谷奥村大字今立ひがしたにおくむらおおあざいまだち(現・加賀市山中温泉今立町口)で、辻亀吉・もと夫妻の次男として誕生した。夫妻には四人の男子と二人の女子がいたが、時代柄、兄弟には軍人になる者が多く、大佐まで昇進した辻以外にも、弟・ただしが海軍大尉(第二次世界大戦で戦死)、政良が陸軍中尉となっている。辻家は水田三反歩を耕作しつつ炭焼すみやきを生業としていた。また、辻家は浄土真宗の道場も兼ねていた。このため辻はある程度の仏教的素養を持っていたと考えられるが、このことは第二次世界大戦終了と同時に辻が僧侶に扮して潜伏生活を送るうえで役に立った。

辻が生まれた今立は山中温泉から約八キロの所に在る寒村である。寒村出身という履歴は辻の人格形成に重要な影響を及ぼしている。辻は好んで「明治維新は足軽の手によつて成就した」(村上兵衛「地獄からの使者辻政信」)と述べたというが、辻が競争心旺盛な猛烈な努力家で強固な意志を持つ人間になったのはその生い立ちによるところが大きい。また、辻は、幼年学校時代に幼少期をふりかえり、「吾れ北国の寒村に呱々ここの声を挙げしは、明治三十五年十月十一日なり。四囲ただ峻山重畳しゅんざんちょうじょう、随つて道路の坦々たるあるなし。里閈りかんを出でんとするや、必ず健脚に頼らざるべからず。此の四囲、遂に吾が気をして剛健ならしめ、吾が身体をして頑丈ならしめ、然して遂に軍人たるの大抱負を授けたり」と書いているように、辻の超人的な努力と意志力を裏付けた頑健な体力も寒村出身であることが影響していた(杉森久英『辻政信』)。

明治四十二年(一九〇九)四月、辻は東谷奥村立荒谷あらたに尋常小学校に入学し、大正四年(一九一五)三月に卒業した。小学校時代の辻は学校から帰ると、その日教わった内容を母に話して聞かせたという。また、読書好きであったが、宮本武蔵に関する講談本を読んでいた際、父から「偉い人間になろうというものが、小説なんか読んでどうする」と叱責されて以来、小説類を読まなくなったという。さらに、辻は記憶力に優れ、学芸会の前日に原稿用紙五枚の文章を渡され、翌日に一字も間違えず暗誦したという。天賦の才に努力が加わったため、卒業の年である六年の成績は十段階評価で全科九点であった。尋常小学校を卒業した辻は家から八キロ離れた山中町立山中尋常高等小学校の高等科に進んだ。辻は徒歩で通学したが、雪深い冬季は浄土真宗大谷派の燈明寺とうみょうじに下宿し通学した。学校のある山中温泉は北陸を代表する温泉地の一つで、成金が酌婦や遊女と遊興する淫蕩な雰囲気に満ちた街であった。寒村出身の辻はこの光景を嫌悪し、これが辻の潔癖性を育み、後に彼が同僚軍人の遊興を攻撃する遠因となったと考えられる。(杉森久英『辻政信』)

大正五年(一九一六)秋、辻に転機が訪れる。福井県に修学旅行に出かけた辻は、武生たけふの宿屋で青年将校を紹介され、幼年学校を受験し軍人になることを決意したのである。この当時、幼年学校は日本各地に六校存在し、各校五〇人、合計三〇〇人の生徒を募集したが、かなりの難関で、受験者は中学一年・二年修了者が多く、辻のような高等小学校出身者は比較的少なかった。

通説では、辻は幼年学校に補欠で合格したとされてきた(以上、杉森久英『辻政信』)。だが、官報第1498号によると、辻は高等小学校出身のハンディを乗り越え五〇人中二四位の成績で合格している。『名幼校史』と官報とを見比べると、補欠合格者は辻ではなく竹内彦三郎のようである。かくして、大正六年(一九一七)九月一日、辻は名古屋陸軍地方幼年学校に入校した。