駆逐艦『濱風』 戦時人命救助の大記録

駆逐艦『濱風』 戦時人命救助の大記録

隠れたる“戦記”

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数々の作戦に従事し、遂には『大和』型3隻の死出に居合わせることになった駆逐艦『濱風』。その時々に尽くされた最善の救命活動と努力、その奥に秘められた過去の悲劇。そして打ち立てられた物言わぬ金字塔!

文=手塚正己(歴史群像2019年8月号)

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背景の写真は、1942年5月の珊瑚海海戦で沈没した空母『レキシントン』乗組員が僚艦に救助されるところ。等間隔に結び目を作ったロープや縄梯子が見え、これらは日本海軍でも同様に使用された。下写真は昭和16年6月、竣工時の『濱風』。


これまで筆者は、本誌に掲載した題材の中で、戦闘後の駆逐艦による沈没艦船の乗員救助について数多く述べてきた。主なものでは、「駆逐艦乗りの沖縄特攻」(一二四号)、「インタビュー・谷川清澄」(一二七号)、「空母『信濃しなの』の沈没(後編)」(一五二号)などがある。

今回はこれまでに幾度も登場した駆逐艦『濱風はまかぜ』の救助活動のみに絞って紹介する。海軍艦艇の活躍とは、敵艦や陸上施設への攻撃だけではない。溺者できしゃ救助という地味で根気のいる作業に、乗員たちの勇猛果敢ぶりが発揮されるのだという実例を描いてみたい。

戦闘後における兵員救出の意義

海軍の戦争は、海原と空を舞台に繰り広げられた。敵味方を問わず多数の艦船が沈み、航空機が堕ちた結果、溺者救助が行われた。また日本軍の場合は、海上だけでなく島嶼とうしょからの救出作戦も、幾度となく実施された。

当然なことだが、溺者救助の対象者は味方だけではなく敵もいる。日本軍が敵将兵を救助した例として有名なのは、明治三十七年(一九〇四)八月十四日の「蔚山ウルサン沖海戦」で、ロシアの装甲巡洋艦『リューリック』乗員六二七名を救助している。第二艦隊司令長官の上村彦之丞かみむらひこのじょう中将(海兵四期)は、満身創痍になってもなお果敢に砲撃を続けた敵将兵を「敵ながら天晴れ」と称賛し、救助の手を差し伸べたという。

また昭和十七年(一九四二)三月二日、スラバヤ沖を単艦で航行中の駆逐艦『いかづち』は、前日の海戦で沈没したイギリスの重巡『エクセター』と駆逐艦『エンカウンター』の乗員が漂流しているのを発見した。白昼ではあったが、制海権も制空権も日本軍が押さえているし、潜水艦の気配もない。工藤俊作艦長(海兵五十一期・少佐)は「溺者救助、配置に就け」を命じ、四二二名の漂流者を収容した。この出来事は近年になって「海の武士道」として詳しく紹介され、「人道主義(ヒューマニズム)」のお手本のように高く評価された。

だが敵の将兵を救助することが、それほどに価値があることなのだろうか。戦争中に敵兵を何十、何百人と救出しても、味方にとって戦局にはなんの利益にもならない。ましてや救助作業中に本艦が攻撃を受けようものなら、場合によっては艦を沈められ、多数の乗員を殺してしまうこともあり得る。したがって敵将兵の救助は、よほど安全であるという確信がない限り実施しない。軍隊にとっては、敵に対しいかにして多大な損害を与えるか、味方の損害をいかにして最小限にとどめるかが最優先で、「人道主義」とか「武士道精神」などは、二の次、三の次、それが戦争である。

しかし、日米ともに、敵兵の救助をおろそかにしたわけではない。味方に危険を及ぼさない限りは、溺者救助は実施した。その目的の第一義は、敵の情報収集にあった。捕虜の口から得られる情報は、何にも増して新鮮で、貴重である。

無論、味方の救助が優先することは言うまでもない。特に、米軍の味方遭難者の捜索と救助は徹底していた。

一方の日本軍も、でき得る限りの救出活動に尽力した。その理由は「味方を、仲間を、同胞を、戦友を」助けたいという情の部分も確かにあっただろうが、両軍に共通している大きな理由の一つは戦力の消耗を防ぐことだった。戦力というのは、軍艦や飛行機だけでなく将兵も含まれている。例えば火器や航空機など規格に基づき製造する兵器は、材料と施設さえあれば短期に量産できるが、将兵はそうはいかない。

日本海軍の兵隊だと、海兵団教育を経て艦隊勤務に就いても、使い物になるまでには早くて一年半、通常二年はかかる。飛行機操縦員はもっと長い。予科練習生の場合、戦争がはじまる以前だと、基礎教育に二年十か月、操縦基本に約一年を費やして、ようやく自力で大空を舞うことができるが、その後に実施部隊でさらに一年以上の飛行経験を重ねて、ようやく一人前の飛行機乗りになれる。つまり、人材をみすみす殺してしまったら、兵力の維持は成り立たなくなってしまう。人命救助とは、兵力の消耗を防ぐことが大きな目的なのだ。

突出した『濱風』の救命記録

駆逐艦『濱風』は陽炎型の十三番艦として、昭和十六年(一九四一)六月三十日に浦賀船渠で竣工した。主な要目は基準排水量二〇〇〇トン、速力三五ノット(時速約六三キロ)、乗組員は一番多い時で三五七名になっている。

『濱風』が殊勲を挙げた水上戦闘といえば、昭和十八年(一九四三)七月六日に生起した「コロンバンガラ島沖夜戦」での魚雷戦であろう。第二水雷戦隊の『濱風』は『雪風ゆきかぜ』『清波きよなみ』『夕暮ゆうぐれ』との四隻共同で、米軽巡二隻を大破、駆逐艦一隻を撃沈している。

だが『濱風』の真価は、戦闘だけではない。特筆すべきは人命救助の回数と救助者数である。残された記録では、戦艦二隻、空母一隻、駆逐艦一隻、輸送船二隻の乗員一六八〇名を救助している。また正確な資料はないが、「濱風会」の調査では空母二隻から約六〇〇名強を移乗させたと見積もっている。これらの数字を合計すると、救助者数は約二三〇〇名となる。

『濱風』は救助作業のほとんどを戦闘終了直後に実施した。敵機の空襲が再度あるかもしれないし、海中には潜水艦が潜んでいるかもしれない。よほどはらの据わった艦長でなければ作業を遂行するのは難しいだろう。またその艦長の指揮の下で、高い練度と覚悟を備えた乗員が献身的に活動しなければ、二三〇〇名もの人間を救うことはできなかっただろう。

『濱風』は溺者救助に加えて、四面を敵の制海空下におかれた状況で、ガダルカナル島からの陸海軍将兵と軍属の撤収救助作戦(「ケ」号作戦)にも働いた。第一次撤収作戦では八〇七名、第二次では六三四名と、計一四四一名を救出した。また人数は不明だが、サンタイサベル島レカタから第七聯合特別陸戦隊の将兵も収容している。

ガダルカナル島撤退作戦時の日本海軍駆逐艦。マストには旗旈信号を掲げ、人員や物資引き上げに使われたと思しき舟艇を曳航している。