昭和二十年八月十一日、ソ連軍が北緯五〇度線を越えて南樺太へと侵攻を開始した。日本軍に北方の防備を強化する戦力がないなか、南樺太を防衛する第八十八師団は決死の抵抗を繰り広げた。ソ連軍の南下を遅らせた彼らの奮闘は、戦後日本の運命を大きく変えることとなる――
文=山崎雅弘(歴史群像2013年8月号)
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〈左上〉国境を警備する警察官と天測境界標(国境標石)。標石はオホーツク海側から間宮海峡へ向けて天第一号から四号までが国境線に沿って設置されていた。〈右下〉短機関銃をかまえ、味方を援護する狙撃兵連隊の兵士。
昭和二十年の日ソ戦で唯一の「国境越えの戦い」
太平洋戦争末期の昭和二十年八月、対ドイツ戦の勝利で勢いに乗るソ連邦は、日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告を行い、極東のソ連軍は日本軍への総攻撃を開始した。
このソ連軍による対日攻撃の主戦場となったのは、当時関東軍が展開していた広大な満州国だったが、副次的な戦域として千島列島と南樺太、そして朝鮮北東部でも、日ソ両軍部隊の戦闘が繰り広げられていた。
北海道の真北に位置する、南北九五〇キロ、東西一六〇キロの細長い樺太(ソ連側呼称はサハリン)は、日露戦争のポーツマス講和条約(明治三十八年)以降、島のほぼ中間に位置する北緯五〇度線で二つに区切られ、南側が日本の領土に組み込まれていた。
言い換えれば、樺太は第二次大戦当時、日本とソ連が陸上で国境線を挟んで対峙していた唯一の場所※注1であり、日ソ開戦と同時にここが戦場となったのは当然の成り行きと言えた。
樺太では、満州各地の戦域ほど兵力的に劣勢ではなかったとはいえ、すでに敗色濃厚となっていた日本軍には、ソ連軍の本格的な攻勢を長期にわたって食い止める戦力は残されていなかった。しかし、国境付近に築かれた陣地帯や、島の西部に位置する港町では、戦車も航空支援も高射砲も持たない小規模な日本軍部隊が奮闘して、ソ連軍の進撃を幾度にもわたって食い止め、結果的に極東方面におけるソ連軍の戦争計画に重要な修正を強いる役割を果たした。
それでは、昭和二十年八月の樺太では、いかなる戦いが繰り広げられたのか。日本軍の樺太配備部隊は、どのような防衛計画をもってソ連軍の侵攻を迎え撃ち、樺太の戦いは最終的にどう決着したのか。
そして、樺太における日本軍部隊の奮戦は、太平洋戦争の終結状況にどんな影響を及ぼしたのだろうか。
注1:厳密に言えば、昭和13年に国境紛争が発生した「張鼓峰」付近の朝鮮北東部にも、日本領の朝鮮とソ連の国境線がわずかながら存在した。
日ソ開戦までの樺太
日露両国の狭間で揺れた樺太
大体、如才なく、敏捷で、頭の利く日本人が、サハリンの歴史の中では、到る処でどことなく腹の据わらない、煮え切らない行動をしているが、これは彼らがロシア人側と同様に、やはり自己の権利に対する確信に乏しかったことによってはじめて説明のつくことである。
──チェーホフ『サハリン島』
ロシアの文豪アントン・チェーホフは、一八九〇年に当時ロシアが流刑地としていたサハリン(樺太)を訪問し、その滞在中に見聞きした内容を『サハリン島』という旅行記にまとめた。
彼の言葉が物語る通り、日本とロシアの中間に位置するサハリン島に関して、日露両国は明確な領有権主張の根拠を持たず、測量士の間宮林蔵らが「樺太は半島ではなく島である」ことを確認した(一八〇八~〇九年)頃には、現地のアイヌ人と、入植した日露両国人が、なんとなく混在してそれぞれの生活を営んでいた。
一八五五年(安政二)に結ばれた日露和親条約でも、樺太については「境界はあえて決めず、今まで通り往来自由とする」と軽く触れただけで、その一二年後に制定された樺太島仮規則では「樺太/サハリンの日露共有」という大らかな認識すら提示されていた。
しかし、開発が進んで樺太の持つ天然資源が注目され始めると、自然と領有権をめぐる諍いが起こるようになった。こうした紛糾を収拾するため、明治八年(一八七五)五月に駐露公使の榎本武揚とロシア首相兼外相ゴルチャコフとの間で「樺太千島交換条約」が調印され、サハリン(樺太)全島はロシア領、ウルップ以北の千島列島(クリル諸島)は日本領であると定められた。
ちなみに、ウルップより南のいわゆる「北方領土」は、樺太とは異なり、日露交渉の始まりの段階からずっと「日本固有の領土」としてロシア側にも承認されていた。
その後、明治三十七年(一九〇四)に勃発した日露戦争が、翌年に終結へと向かい始めると、日本側は講和条約を有利に進めるための材料として、同年七月七日から樺太へと部隊(第十三師団)を上陸させた。日本軍は、七月末までに樺太全島を制圧して支配下に置き、九月五日にアメリカのポーツマスで調印された講和条約では、北緯五〇度線が樺太における日露国境として正式に定められ、同線以南が日本領として画定された。
帝政ロシアの崩壊に伴う「シベリア出兵」後の騒動(尼港事件・大正九年)のさなかには、北樺太も一時的に日本軍の支配下に置かれたが、大正十四年(一九二五)にソ連側へと返還されて以降、第二次世界大戦まで北緯五〇度線が日ソ国境として使用され続けた。
樺太の主要産業は、漁業と林業、パルプ工業、そして石炭の産出であり、当初はさらにソ連領北樺太内の石油についても、大正十四年の日ソ基本条約に基づいて日本側資本で開発が進められた。だが、張鼓峰事件(昭和十三年)やノモンハン事件(昭和十四年)など日ソ両軍の国境紛争が頻発したことにより、これらの石油利権は打ち切られてしまった。
また、石炭産出量を増大させるため、日本政府は七〇〇〇人を超える朝鮮人を強制徴用して樺太に送り込み、その結果、昭和十六年には三四か所の炭坑合計で六四七万トンを産出、うち四〇〇万トンを日本の本州向けに搬出していた。
