大清帝国の成立 <前編>

大清帝国の成立 <前編>

「モンゴル王子」の即位と朝鮮侵攻

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アイシン・グルン(後金国)を打ち建てた一代の英雄ヌルハチは寧遠城攻防戦の戦傷がもとで急逝。ヌルハチ嫡四子のホンタイジが新たなハンに即位する。領内を覆う経済的危機を乗り越え、ダイチン・グルンが成立するまでの一〇年間を俯瞰する。

文=山上至人(歴史群像2020年12月号)

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瀋陽故宮・大政殿。移動式テントのゲルを模した様式で、正面の2つの柱に皇帝の象徴の金 の龍が絡み付いている。 ホンタイジの代には主にここで式典が行われた。

史上屈指の世界帝国

一六二六年八月、アイシン国グルンのハンにして建国者であるヌルハチは、その年の一月に遼西りょうせい地方(遼河りょうが以西の地域)における明軍の要衝・寧遠ねいえん城の攻防戦で負った傷が元で世を去った。

ヌルハチ死後、アイシンのハンとなったホンタイジはその勢力を拡大させ、一〇年後には満洲マンジュ・蒙古モンゴ・漢ニカンに君臨する「大清皇帝」に即位し、国号を「大清国ダイチン・グルン」とした。清王朝の成立である。

初代皇帝となったホンタイジは、一六四三年に五十一歳で急逝するが、ダイチン・グルンは拡大の一途を辿る。その支配領域は万里の長城を越え、中原を飲み込んで中華世界全体を覆う。さらにモンゴルやチベット、東トルキスタンをもその版図とし、朝鮮・琉球、東南アジア諸国をも従える人類史上屈指の大帝国へと成長を遂げていく。

最終的に二十世紀初頭まで存続することとなったダイチン・グルンは、近代中国の枠組みをも大きく規定し、いまなお現在の中華人民共和国と周辺地域に多大な影響を及ぼしているのだが、本稿では実質的な帝国の建国者・ホンタイジがダイチン・グルンを打ち建てるまでの一〇年間を概観したい。

骨肉相食

商業軍事集団マンジュ

のちにダイチン・グルンを打ち建てることになる女真ジュシェン(女直)は、松花江しょうかこう一帯から外興安嶺がいこうあんれい(スタノヴォイ山脈)以南の地域、現在の中国東北部からロシアの沿海地方にかけて居住していたツングース系の民族である。女真は半農半猟の定住生活を送っていたが、十二世紀に入ると、完顔ワンヤン部(のちのワンギャ氏の前身)の阿骨打アクダが、南モンゴル(現在の中国内モンゴル自治区)を中心に中国北辺までを支配していた契丹キタイ人の遼りょう(大契丹国イェケ・キタイ・オルン)の支配を脱して金アルチュフ王朝を樹立。金は遼を滅ぼし、さらに漢民族の北宋を淮河わいが以南に追いやって華北地方を支配した。しかし、十三世紀前半に金はモンゴル帝国ウルスの侵攻を受けて滅亡し、女真の遺民は部族単位の小集団を形成してモンゴルに従う。

十四世紀に入ると、江南地方から勃興した明みん朝がモンゴルを北方に追いやり、明は支配下に置いた女真を部族ごとに衛所えいしょという兵農一致の軍事制度に組み込み、首長たちに明の官職と朝貢の権利を与えて間接統治を行った。

これ以降、女真社会とその経済は明との交易を前提に成り立つものとなり、十六世紀末には、女真はマンジュ五部(建州けんしゅう女直)、フルン四国(海西女直)、東海三部(野人女直)に分かれ、交易権などを巡って抗争する状況となっていた。

ヌルハチは、五部あるマンジュのひとつ、スクスフ部の一族長の家系の出身であったが、明の遼東総兵・李成梁りせいりょうを後ろ楯に貂テンの毛皮や朝鮮人参の取引で莫大な利潤を得ていた。当時、中国の北方には再統一を果たしたモンゴルの脅威に備えて大部隊が駐留していたが、その莫大な軍糧の支払いに銀が用いられたことから、明朝は銀を中心とする税制・財政へ転換し、官民で銀の需要が著しく増大していた。

中国には日本銀やメキシコ銀が大量に流入し、中国を中心に世界は「商業ブーム」に沸く。冊封さくほうと朝貢を基本とする既存の国際秩序も大きく変容し、日本列島や東南アジアまでを含む海域アジア、遼東地方といった中国周辺の「辺境」地域では倭寇やポルトガル海商などの新興勢力が台頭するが、近年の研究ではそうした勢力を「商業=軍事集団」などと呼んでいる。その典型が、日本の織豊しょくほう政権であり、華人海商の鄭芝竜ていしりゅう・成功せいこう父子であり、オランダ東インド会社であり、シャム(タイ)のアユタヤ王朝であり、そして、ヌルハチのマンジュであった。

一五八三年、女真統一戦争に乗り出したヌルハチはまたたくまにマンジュ五部を切り従え、一六〇六年には南モンゴル東部のハルハ五部からモンゴル語で「クンドゥレン=ハン」の称号を奉呈されたことを契機にハンに即位する。マンジュ国はイェヘを除くフルン、そして東海三部も支配下に置き、一六一六年には「天命アブカイ・フリンガ」を元号として「後金国アマガ・アイシン・グルン」の建国を宣言する。

天命三年(一六一八)、ヌルハチは明に宣戦を布告。存亡の決戦となった翌年の「サルフの戦い」ではアイシン軍は明・朝鮮連合軍を相手に大勝する。その後、ヌルハチはフルン最大の勢力を誇っていたイェヘ部を滅ぼして女真の統一を果たし、天命六年には遼東・遼西地方への侵攻を開始。そして同十年には本拠をヘトゥアラから瀋陽しんよう(のちに盛京ムクデン・ホトンと改名)に遷した。

女真は多くの部族国家に分立していたが、銀を触媒に巻き起こった世界的な商業ブームを背景に力を蓄えたヌルハチは女真の統合を進める。1606年にはヌルハチはマンジュ・グルンのハンを称し、1616年頃にはアイシン・グルンの建国を宣言した。

ヌルハチへの集権化

半農半猟の女真を含め、遊牧民の社会では、伝統的に部族単位の分権・合議制を基本としている。こうした社会では遠心力が働くのが常だが、明との交易権を一手に握るヌルハチはその利権を分配することで求心力を確保していた。マンジュに服従した族長たちはヌルハチの本拠ヘトゥアラに集住し、既存の部族集団も解体されて、マンジュ支配下の女真人たちはヌルハチのもとで「グサ」とよばれる軍事・社会集団に再編された。各グサは各自の軍旗や兵装の色をその名称としたことから、グサにはのちに漢字で「旗」の字があてられた。当初は四旗が編成され、ヌルハチの子弟が領主(旗王グサイ・ベイレ)として各グサを支配した。黄旗スワヤン・グサはヌルハチが直卒し、白旗シャンギャン・グサは長子チュエン、紅旗フルギャン・グサは次子ダイシャン、藍旗ラムン・グサはヌルハチ同母弟のシュルハチに与えられた。

ここで注意したいのはハンであるヌルハチも並居る旗王たちの第一人者に過ぎなかったという点だ。旗人グサイ・ニャルマとよばれるグサの構成員に対する人事や賞罰の権限はヌルハチにあったが、旗人たちの忠誠は直接的には自らが属するグサの旗王に向いていた。ヌルハチは晩年には独裁的な権力を握ることになるが、それは、ともに女真統一戦争を戦ってきた兄弟・息子との熾烈な権力闘争の末に得たものであった。

ヌルハチは既存の部族集団を解体し、その属民(ジュシェン)をグサと呼ばれる社会・軍事集団に編制した。成年男子を甲士(甲冑で完全武装した騎兵)としてニルと呼ばれる単位に編成し、5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グサとするのが基本的な構成であった。グサの領主である旗王(グサイ・ベイレ)にはヌルハチの子弟が封じられ、さらに各グサには戦時の司令官としてグサイ・エジェン(旗主、漢語で都統。)が任じられ、副司令官として2人のメイレン・イ・エジェンが置かれた。