日米関係の悪化とともに、アメリカに在住する日本人移民とその子孫たちは「敵性市民」と見做され、過酷な境遇へと追いやられることとなった。多くの日系人が強制収容所に収容されるなかで、祖国アメリカへの忠誠を示すべく、日系二世の若者たちは軍隊に志願した。
文=山崎雅弘(歴史群像2020年2月号)
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激戦地となったフランス・ブリュイエールで、星条旗と連隊旗を手に立つアメリカ陸軍第442連隊戦闘団の日系アメリカ人兵士たち。その勇戦と殊勲により、連隊の名はアメリカ軍事史に燦然と刻まれている。
(写真下左)日系アメリカ人の強制退去を促す貼り紙。大統領令9066号に署名したローズヴェルトは蔣介石とも親しい親中派であり、反日感情が強かったことで知られる。 (写真下右)強制退去命令により閉店した日系アメリカ人が経営する商店。「朝日洋服洗濯所」と書かれているが、染色工場であったようだ。
二つの国に引き裂かれた忠誠心
日本からの観光客も多く訪れる、アメリカ合衆国ハワイ州のオアフ島にあるホノルル国際空港は、二〇一七年に「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と改称された。
同空港のターミナル1、搭乗ゲート56のそばに、第二次世界大戦でアメリカ軍の兵士として戦った日系二世部隊を顕彰する展示がある。在米日本人の家庭に生まれ、星条旗に忠誠を誓った彼らは、アメリカ軍の第100歩兵大隊、第442連隊戦闘団、陸軍情報部(MIS※注1)、第1399建設工兵大隊(オアフ島)の一員として、第二次大戦に参加した。
空港名となったダニエル・K・イノウエも、第442連隊戦闘団に配属されてイタリア戦線でドイツ軍と戦い、戦闘中に右腕を失った後に陸軍大尉として名誉除隊した、日系二世部隊のベテラン(元軍人)だった。ハワイ出身のイノウエは、一九五九年から一九六三年まで日系人として初めて連邦下院議員に選出され、同年から二〇一二年までの四九年の長きにわたって上院議員を務めた、アメリカ政界の功労者としても知られている。
イノウエを含む日系二世部隊の第二次大戦中の功績は、ハワイだけでなくアメリカ全土で讃えられており、彼らの献身的な働きを尊敬するアメリカ軍人も少なくない。だが、その一方で、彼らがアメリカ軍の一員として前線に赴く前のアメリカ国内では、真珠湾を「だまし討ち」した日本人に対する敵意と恐怖心から、在米日本人と日系二世に対する差別と迫害が行われ、罪もない市民が有刺鉄線に囲まれた強制収容所に閉じ込められた。
それでは、アメリカの日系人は第二次大戦中、どのような境遇に置かれていたのか。そして、空前絶後の叙勲と戦場での死傷率の高さで知られる日系二世部隊の第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団は、いかなる経緯で編成され、戦場でどんな戦いを繰り広げたのだろうか。
注1:Military Intelligence Service
《強制収容所に入れられた日系アメリカ人》
真珠湾攻撃で始まった日系アメリカ人の苦難
日本人の集団的なアメリカ(のちに併合する領土も含む)への移住が始まったのは、一八六八年のことで、最初の移住先はハワイ※注2だった。その多くは、農業不況で経済的な苦境にあえいでいた地方の農民たちで、翌一八六九年にはアメリカ西海岸にも日本人の移民が向かった。
その後、一九二四年に米国内で「外国人移民制限法」が制定されると、日本人のアメリカへの移民流入は停止したが、その時までに約二二万人の日本人がアメリカに移住した。
だが、新天地を夢見てハワイや米本土の土を踏んだ彼らを待っていたのは、大農場での低賃金労働と、アジア人に対する差別と偏見だった。アメリカへの帰化や、土地の購入、白人との結婚など、日系移民のさまざまな権利を制限する法律が制定されて、日本人移民に屈辱と憤慨をもたらした。
一九二〇年代には、それまでにアメリカに移住した日本人の子ども、いわゆる「日系二世」の誕生がピークを迎えた。彼らの多くは、一九四一年十二月七日(アメリカ東部時間、日本時間では八日)の日本海軍による真珠湾への奇襲攻撃で日米戦争が始まった時、兵役の適齢期に達していた。
だが、彼らはすぐに、予想もしなかった苛酷な境遇へと追いやられることになる。在米日系人を「安全保障上の脅威」と見なす認識が、米国内で急速に広がったのである。
連邦捜査局(FBI)は、日本軍への協力などの容疑で、開戦からの三日間で日系人一二九一人の身柄を拘束し、名の知れた論客が新聞紙上で「日系人の脅威」を声高に煽った。町中では、日系人が「ロサンゼルスを爆破した」「飲み水に毒を混ぜた」などの根拠がないデマが流され、日系人への差別と偏見に基づく嫌がらせや暴力事件が急増した。
アメリカ本土西海岸の防備を管轄する米西部防衛軍(WDC※注3)と、カリフォルニア州の防衛を担う米陸軍第4軍の両司令官を兼任するジョン・デウィット陸軍中将は、在米日系人を「潜在的な脅威」と捉えて管轄地区から排除する方策を検討した。太平洋に面したワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州からの、日系人の強制移住計画である。
アメリカ軍の中には、ハワイで勤務した経験を持つ陸軍副参謀長のマーク・クラーク准将や、ハワイの軍政長官デロス・エモンズ中将など、日系人による破壊や妨害の事実が確認されていない以上、日系人の強制移住は必要ないと考える人間も少なからず存在した。だが、アメリカ国民の漠然とした不安と、それを煽るメディアの論調が高まるにつれ、政府は何らかの具体的な対処策をとることを強いられた。
その結果、フランクリン・ローズヴェルト大統領は一九四二年二月十九日、在米日系人強制収容に繋がる重要な命令文書「大統領行政命令第九〇六六号」に署名したのである。
注2:1898年にアメリカに併合されてハワイ準州となった(1959年8月21日に正式な州に昇格した)。
注3:Western Defense Command

日系アメリカ人強制収容所の開設
大統領行政命令第九〇六六号は、特定地域の「軍事地域」への指定と「域内での規則遵守を確保するために妥当と認められる手段」の行使を陸軍長官と軍司令官に許可するという文言で、日系人を域外に強制退去させる実質的な権限を付与する内容だった。
これを受けて、デウィットは一九四二年三月二日に前記の西海岸三州の西半分とアリゾナ州南部を西部防衛軍の「第一軍事地域」に指定し、同地域からの日系人立ち退きを進めさせた。だが、真珠湾攻撃の時点で、アメリカ本土(ハワイとアラスカは含まず)には一二万七〇〇〇人の日系人がおり、西海岸の三州にはその約九割に当たる一一万二〇〇〇人が居住していたが、子どもや老人を含む一〇万人以上の市民を即座に受け入れられる転居先が、アメリカ国内ですぐに見つかるはずもなかった。
その解決法として、西部防衛軍は三月十一日に「戦時民間管理局(WCCA※注4)」を創設し、ワシントンD.C.の連邦政府は三月十八日に「戦時転住局(WRA※注5)」を設立した。後者は、強制退去させた日系人を収容するための収容所「転住(リロケーション)センター」を全米の計一〇か所に突貫工事で建設する事業を統括し、前者はそれが完成するまでの間、競馬場の厩舎や家畜競売場などの施設に日系人を一時収容する計一七か所の「集合(レセプション)センター」を管理した。
強制退去を強いられた日系人は、かばん二個に入るだけの荷物しか持ち出しを許されず、家や農地、店舗などの財産は慌ただしく白人に売却されたが、足元を見られて安く買い叩かれる場合がほとんどだった。彼らは、カーテンで目隠しされた鉄道客車でまず集合センターへ、次いで転住センターへと移送されたが、どちらの施設も脱走できないよう有刺鉄線で厳重に管理され、監視塔にはサーチライトと機関銃が据えられていた。
最初に建設された転住センターは、カリフォルニア州東部の砂漠地帯にあるマンザナーで、元は「オーウェンズ・バレー集合センター」として三月二十一日から使用されたが、施設規模を拡張した後、六月一日に「マンザナー転住センター」と改称された。タール紙貼りの簡素なバラック五〇四棟が、四角い敷地内に整然と並んでいたが、バラックは密閉されておらず、収容された日系人はマットレスの代わりにわらを入れた袋の上に寝ることを強いられた。
注4:Wartime Civilian Control Administration
注5:War Relocation Authority


