戦史分析 上野戦争

戦史分析 上野戦争

西郷隆盛の指揮統率と「新政府軍圧勝神話」の実相

42 min read

上野山に籠る彰義隊など旧幕府軍に対して、新政府軍は総攻撃をかけて一日で掃討、爾来、大村益次郎は上野戦争の立役者とされてきた。しかし江戸城に坐した大村と違い、陣頭に立って戦闘の指揮をとったのは西郷隆盛であり、その指揮統率力をいかんなく示すものとなった。

文=長南政義(歴史群像2021年2月号)

【タイトルバック画像】

(上)円通寺に移築された寛永寺黒門(撮影:長南政義)。黒門は寛永寺の総門。円通寺住職仏磨と商人の三河屋幸三郎は、彰義隊戦死者の遺体を火葬し、円通寺に埋葬した。このことが機縁となって、明治40年(1907)、黒門は、帝室博物館より円通寺に下賜された。門には当時の激戦を物語る弾痕が多数残されている。(左下)西郷隆盛画像(国立国会図書館所蔵)。大牟礼南塘の作。親族から西郷隆盛に似ているといわれた西郷隆治(隆盛の庶長子・菊次郎の息子)をモデルにして、西南戦争の従軍者の意見なども参考にしつつ描かれた。


低調な「軍事指揮官」としての西郷研究

西郷隆盛は帝国陸軍最初の大将にして、唯一の「陸軍元帥」(西郷以外は階級ではなく称号としての元帥なので「元帥陸軍大将」)である。だが、軍事指揮官として西郷を分析した研究は極めて少ない。その理由は、西郷が実戦で部隊を指揮した事例が少ない点にある。たとえば、戊辰戦争において、戦いくさ好きを自称した西郷が陣頭で指揮をとった事例は三回しかない。

慶応四年(一八六八)の鳥羽伏見の戦いでは、一月三日に前線に出るも、この時は戦線視察にとどまっている。また、五日夜には本陣を抜け出して八幡で陣頭指揮をとるも、薩摩藩主島津忠義から譴責けんせきを被こうむり、鳥羽伏見での「武人」としての西郷は不完全燃焼に終わった。

その西郷が、戊辰戦争で唯一、前線で部隊を指揮したのが上野戦争における黒門口攻撃の時である。また、上野戦争そのものについての戦史的考察も従来、あまり綿密にはなされていない。そこで本稿では、上野戦争を戦史的に詳細分析しつつ、上野戦争での西郷の実兵じっぺい指揮を概観することで、彼の軍事指揮官としての指揮能力やリーダーシップ(統率力)について考察したい。

上野戦争開戦まで

上野戦争は、慶応四年五月十五日(一八六八年七月四日)、薩摩藩・長州藩・佐賀藩などで構成される新政府軍が、上野の東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじに籠る旧幕府軍(天野八郎を事実上の指導者とする彰義隊主体)を撃破した戦闘で、戊辰戦争で戦われた戦闘の一つである。

そもそも戊辰戦争は、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼討事件を契機として、徳川慶喜が討薩表とうさつのひょうを出した後、大坂を発し京都へ向かった旧幕府軍が、慶応四年一月三日に鳥羽で薩摩藩兵の砲火を浴びたことで始まった。

鳥羽伏見の戦いで一敗地に塗まみれた徳川慶喜は大坂城を脱走して江戸に帰還し、寛永寺大慈院だいじいんで謹慎生活に入った。一方、勢いに乗る新政府軍は、東征の大号令を発し東征軍を江戸に向け進発させた。当初、徳川慶喜の厳酷な処分にこだわり、三月十五日を江戸城総攻撃の日と定めた東征大総督府下参謀しもさんぼうの西郷隆盛は、三月十三日と十四日に旧幕府陸軍総裁の勝海舟と四年ぶりに会見し、総攻撃を中止する決断を下した。

彰義隊は徳川慶喜の朝敵の冤罪えんざいを雪そそぐことを主たる目的として、旧幕臣の渋沢成一郎(頭取)・天野八郎(副頭取)らにより結成された。本営を浅草本願寺に置いた彰義隊は、旧幕府の依頼で江戸の治安維持に当たり、後に慶喜の警護を名目にして本営を上野寛永寺に移す。だが、四月十一日に江戸城が無血開城され、慶喜が水戸に退去しても、彰義隊は日光輪王寺門跡りんのうじもんぜき公現入道こうげんにゅうどう親王(後の北白川宮能久よしひさ親王)を擁立し、徳川家霊廟守護を理由として寛永寺に留まり続けた。

最盛期に約三〇〇〇~四〇〇〇を数えた彰義隊は、新政府軍との武力衝突を懸念した勝海舟ら旧幕府首脳の解散勧告を拒否し江戸の巡邏じゅんらを継続し続けた。勧告拒否の背景には、主戦論者である寛永寺執当覚王院義観かくおういんぎかんの説く強硬論に、彰義隊が影響を受けたことがあった※注1。そして勝の懸念通り、彰義隊士が薩摩藩士ら新政府軍兵士を殺傷する事件が生じるに至った。

当初、西郷は徳川家に対し融和路線を採っていたが、閏うるう四月四日に江戸に到着した軍防事務局判事大村益次郎(長州藩)は強硬路線を主張した。そして、大監察使三条実美さねとみの江戸到着により、東征大総督府が強硬路線を採用し、大村が軍事指揮権を事実上掌握する(以上、山崎有信『彰義隊戦史』、家近良樹『西郷隆盛』)。

「私闘」を不可と考える西郷も兵士殺傷の報に接し、「彰義隊の曲を挙げ」て「公然」と朝廷の命令を待って彰義隊を追討し憂鬱を晴らすべきであると考えるに至った(『西郷隆盛全集』第二巻、一四二号文書)。彰義隊の軽挙が新政府軍に討伐の名義を与えたのである。


注1:なお、この間、渋沢は江戸の地が決戦に不利として日光移転を主張し天野と対立、彰義隊を脱盟し振武軍を結成した。振武軍はその後、飯能戦争で鎮圧されている。渋沢脱盟後の彰義隊の頭には本多邦之輔が就任、本多の後は池田大隅守長裕・小田井蔵太が頭を務めた。

「戦場の霧」と「摩擦」 ──戦争分析の視点

上野戦争は、一日で決着がついた戦争であるため、圧倒的兵力を持ち兵器で優る新政府軍が、旧幕府軍を楽勝で打ち負かしたというイメージが強い。たとえば、歴史学者が書いた専門書でも「上野戦争は“戦争”と呼ぶにはやや一方的な掃討戦であった」と述べられている(保谷徹『戦争の日本史18 戊辰戦争』)。

しかし、これは結果を知る現代人が、現在から過去を見るからであり、新政府軍を含めた戦争の当事者は幾多の困難に遭遇した。

本稿では、西郷隆盛をはじめとする当時の指揮官が直面した苦悩に焦点を当てて、なるべく史料に依拠して上野戦争を概観したいが、この戦争を分析するにあたり特に、①「戦場の霧」や、②「摩擦」という概念に着目して話を進めたいと思う。

戦争には不確定要素がつきものである。これをクラウゼヴィッツは『戦争論』の中で「戦場の霧」と呼んだ。指揮官は、作戦を立案・指導していくうえで情報に依拠するため、軍隊においては偵察・諜報活動などを通じて情報収集を実施する。しかし、戦場においては、敵情が非常に流動的であるため、常に完全な状況を把握可能なほどの情報が揃うことは稀である。これは、情報革命により情報技術が飛躍的に進歩した現代においても変わらない。

また、戦場の霧に加えて軍隊指揮官を悩ませる問題に「摩擦」という概念がある。摩擦とは、作戦計画を実行に移すうえで直面する様々な障害のことである。摩擦には、対外的摩擦(敵の行動により発生する。自軍の行動は敵の行動により左右されるのだ)、環境的摩擦(気候や地形などの自然環境)などがある。

以下にみていくように、上野戦争でも、新政府軍の指揮官は戦場の霧や摩擦に直面し、苦悩したのが現実であり、上野戦争は通説で語られるような新政府軍にとって楽な戦争であったわけではなかったのだ。