蒙古襲来後、幕府に対する御家人の不満が高まると、後醍醐天皇は天皇親政をめざして倒幕を企図し、楠木正成、赤松円心、足利高氏、新田義貞など、名だたる御家人たちが呼応して反北条の旗を揚げた。一五〇年めにして鎌倉幕府はいかに滅亡したのか?
文=遠藤明子(歴史群像2024年8月号)
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太刀を海中に投じる新田義貞(大英博物館所蔵)。新田義貞が黄金造りの太刀を稲村ヶ崎の海中に投げ入れると、海神に祈りが通じたか、浜は干潟となり、新田軍は難所を一気に通過した。『太平記』における名場面である。
建保七年(一二一九)、三代将軍・源実朝が暗殺された。源頼朝が鎌倉の地を拠点に据え、征夷大将軍として武家の頂点に立ってからたったの二七年で頼朝の嫡流は断絶したのである。頼朝との主従関係を軸として一歩を踏み出した幕府はこれを契機として、本格的な武士による武士のための政治機関として整備されていく。
次代の将軍は摂関家から迎えられたが、これもわずか二代で鎌倉を去った(四代九条頼経と五代頼嗣)。その後、幕府は朝廷から若年の皇族を迎えて将軍に据え、ある程度の期間が経過すると理由をつけて京都に送還するパターンを繰り返すようになる。当初は幼い子供の将軍も成長すれば政治への展望を持つようになり、周囲にも独自の人脈が醸成されて新たな権力を生み出す土壌にもなりかねない。将軍の送還にはそれを穏便に阻止する役割があった。こうなると将軍はもはや実権を伴わない象徴にすぎなくなり、それに反比例して将軍の補佐役を務める執権の北条氏、なかでもその嫡流である北条得宗家へと権力が集中していった。
初代執権・北条時政以来、鎌倉北条氏は執権の地位を独占して対立する有力御家人を次々に排除しながら、その権力を盤石にしてきた。鎌倉に隣接する三浦半島を拠点としていた北条一族最大のライバル・三浦一族宗家を宝治元年(一二四七)に滅ぼしてからは、血族間での内紛を除けば比較的安定した政権を運営してきた北条一族だったが、八代執権・時宗の時代に思いもよらない方向からの脅威に晒される。元寇である。
未曾有の国難に、鎌倉幕府は御家人だけでなく本所一円地※注1の住人、すなわち御家人身分以外の武士と一丸となって立ち向かい、元の侵攻を二回も退けた。
元は三回目の日本侵攻を計画していたようだが、大陸側で活発化する抵抗運動への対応に追われるうち、ついに未遂に終わっている。しかし日本側がそれを知る由もなく、鎌倉幕府は来たるべき三度目の襲来への警戒をやめるわけにはいかなかった。通常の合戦では敵から没収した所領を恩賞として分配するが(新恩給付)、海外の敵では奪える土地もなく、それを期待して戦った鎮西(九州)の御家人は新たな収入が得られるあてもないまま、警護の負担を強いられ続けることになった。
鎌倉幕府の末期は流通が盛んになり、貨幣経済が大きく発展した時代だった。その流れにいち早く適応した者たちの中からは有徳人と呼ばれる新たな富裕層も現れた。彼らは旧来の領主層のような土地を持つ身分ではなかったが、借上や土倉などの金融業や商業、問丸(運送業)などで富を蓄え社会的な地位を向上させた者たちである。しかしその動きに乗り遅れた御家人たちも多く、格差が拡大していった。
こうした流れの中で注目されるのが、「悪党」と呼ばれる存在である。当初は一〇人から二〇人程度、武器も持たずに粗末な格好で徒党を組み乱暴狼藉をはたらく小規模なアウトロー集団に過ぎなかった彼らは、十四世紀初頭になると武装して馬を乗りこなし、組織的な略奪を行うまでに成長を遂げていた。彼らの活動は西国を中心に強大化、広域化し、やがて御家人にも匹敵する、あるいはそれを凌駕する武力と財力を蓄えるようになっていく。
ちなみに「悪党」とは、特定の階層を指すものではなく、体制に盾突く存在を指弾するために用いられた言葉である。幕府や大寺社、貴族の荘園などを襲撃する者は下層民に限らず、幕府や荘官のようなれっきとした役人であっても「悪党」たりえた。幕府はたびたび彼らに対して禁令を発したが効果は薄く、「悪党」の勢いは留まるところを知らなかった。
幕府も御家人の困窮を放置していたわけではない。彼らを救済するために幕府は徳政令を発布するなどの施策で何度も事態の打開を試みはした。しかしいずれの対策も有効打とはなりえず、さらに窮乏した武士たちの中には北条一族の被官となって存続を図る者も少なくなかった。
北条氏は建前上、鎌倉殿(鎌倉幕府の棟梁)の家人として他の御家人と同列の存在である。しかしその内実は初代執権・北条時政の嫡流である得宗家と赤橋家、金沢家、大仏家といった有力庶家が幕府の執権・連署※注2を独占している状態だった。
さらに北条得宗家に仕える被官である御内人が力を持ち、特に鎌倉時代の最末期には御内人の筆頭である内管領・長崎円喜(高綱)・高資父子が若年の得宗・北条高時をさしおいて権力をほしいままにする、かつての将軍と執権の権力交替の構図が再現されていた。こうなるとそれ以外の御家人との間の差はますます広がる一方で、もはや御家人のための政権としての体裁すら失われつつあった。
こうした武士たちの不満をすくいあげるかたちで歴史の表舞台に登場したのが後醍醐天皇である。後醍醐もまた、現状に不満を持つ一人であった。
注1:本所一円地=地頭がいない荘園において、領主・領家の上位にある荘園領主(本所)が、土地や百姓を一元的に支配する地。鎌倉末期には本所が地頭職を兼ねることもあった。
注2:連署=執権の補佐役で、北条氏一門の有力者が選任された。下文(くだしぶみ)・下知状(げちじょう)・御教書(みぎょうしょ)に執権とともに署判する。


後醍醐天皇の憂鬱
後醍醐天皇の憤懣を理解するには、時間を少し巻き戻す必要がある。
文永九年(一二七二)二月、八十八代後嵯峨天皇は、後継者を指名しないまま世を去った。これに伴って後嵯峨の二人の皇子・後深草と亀山(後醍醐にはそれぞれ大伯父と祖父にあたる)との間で皇位継承争いが勃発する。
後嵯峨は鎌倉幕府に皇位継承者の裁定を委ねていた。彼の即位には承久の乱(一二二一年)に積極的に関わった順徳天皇の皇子が皇位につくのを嫌った幕府から推薦を受けた背景があった。皇子の宗尊親王も将軍として鎌倉に迎えられている事情もあり、後嵯峨天皇と鎌倉幕府との繋がりは深かったのである。
幕府は朝廷の問題に深入りするのを避け、妥協案として後深草(持明院統)と亀山(大覚寺統)の「いずれの皇統も等しく存続させるべし」として、それぞれの皇統から交代で天皇をたてる両統迭立の体制を提案した。後醍醐天皇は大覚寺統に連なる四代目の天皇だ。
後醍醐は諱(本名)を尊治という。この時代、天皇は必ずしも朝廷における最高権力者を意味しなかった。後醍醐が即位した当時は、父である後宇多上皇が「治天の君」として院政をしいていた。若くして世を去った我が子・後二条天皇に続く院政を望む後宇多は、後二条の皇子・邦良親王が成長するのを待つための中継ぎとして、叔父にあたる後醍醐を天皇の座につけたのである。
しかし邦良親王も若くして世を去り、後宇多の計画は不発に終わった。孫の早逝に意欲を失ったのか、あるいは後醍醐に後を任せてもよいと判断したのか。理由は定かでないが、後宇多はほどなく院政も停止してしまった。念願かなって親政を始めた後醍醐だが、鎌倉幕府の方針と衝突することも多く、北条氏への不満を募らせていった。後醍醐は無礼講と称した宴会を隠れ蓑にして倒幕の企てを練ったとされる。しかしその目論見はほどなく六波羅探題の知るところとなった。
六波羅探題は西国の軍事や裁判、そして洛中の警固を担当する鎌倉幕府の出張機関である。正中元年(一三二四)九月十九日、幕府転覆の企てありとの密告を受けた六波羅探題はすみやかに動いて容疑者の武士を討ち取った。正中の変と呼ばれる事件である。関与を疑われた後醍醐だったが、当然ながら認めるはずもなかった。幕府も天皇に対して強硬な態度は取れなかったのか、関係者を捕らえて流刑とするに留めて、それ以上の詮索は沙汰やみとなる。
実際のところ、後醍醐天皇は本当にこの事件に関与していたのか。現在でもさまざまな説が出されており、その真相は明らかではない。確かなのは、後醍醐はこの後もさらなる倒幕計画を練り続け、またしてもその企てが露見したことである。
こうなるとさすがに幕府も見逃すわけにはいかない。しかし後醍醐は自身が捕縛されるのを見越してひそかに京を脱出し、木津川のほとりにそびえる笠置山(京都府相楽郡笠置町)に遷ると幕府打倒の兵を募りはじめたのである。これに応じたのが河内国の楠木正成だった。
