「国家第一の下僕」を自称し、君主主導の改革を進めたフリードリヒ大王しかしその生涯の大部分は、欧州列強を相手に絶えざる戦いの渦中にあった様々な葛藤や苦悩、そして束の間の安らぎに彩られた、その知られざる生涯に迫る。
文=荒川佳夫(歴史群像2020年4月号)
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1745年6月4日、プロイセン軍が大勝したホーエンフリートベルクの戦い。オーストリア同盟軍のザクセン近衛歩兵(中~右・白服)を追い散らすプロイセン擲弾兵大隊。この戦いを記念した「ホーエンフリートベルク行進曲」は大王作曲との伝説が残る。
西洋史における英傑は? と問われれば、カエサルやナポレオンと共にフリードリヒ大王こと第三代プロイセン国王フリードリヒ二世の名もあがることだろう。彼は四面楚歌の状態の七年戦争を戦い抜いたことから、軍事の天才と評価されることも多い。その落ち着き払った佇まいは激戦の最中でも変わらず、将兵達を勇気づけたという。一方ではフルート曲を数多く作曲し、詩作にも耽るなど芸術への造詣も深く、また政治や哲学、兵学において多数の著作を残すなど、学識も豊かであった。しかしその反面、服装には無頓着、若い頃から猫背で、痛風の激痛に悩まされていた。そうしたいくつかの顔を持つフリードリヒ二世は、どういった人生を送り、国をどこへ導いたのだろうか──。
父王との確執
プロイセン王国のルーツを遡れば、神聖ローマ帝国の有力諸侯ブランデンブルク辺境伯家と、異教徒改宗のために東方へと侵出したドイツ騎士修道会が十五世紀に世俗化したプロイセン公家にたどり着く。この両家がホーエンツォレルン一族であったため、十七世紀にプロイセン公家が断絶した際、本家筋のブランデンブルク辺境伯がこれを相続し、一七〇一年、神聖ローマ皇帝の承認を得てプロイセン王国を名乗ることになったのである。
初代プロイセン王フリードリヒ一世が没した後、息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世が王となる。彼は経済政策や干拓事業に力を入れる一方で徴兵制を整え、欧州全域から長身の兵士をかき集めて有名な「巨人連隊」を編成したことから、兵隊王の異名で呼ばれることになった。また帝国内の有力諸侯とはいえ周辺の諸外国から見れば小国に過ぎないプロイセンが、その国力に不釣り合いな軍事力を有していたことも、その異名が贈られた理由であったろう。そしてその兵隊王の息子として生まれたのが、後に大王と呼ばれるフリードリヒ二世であった。
一七一二年に生まれたフリードリヒは、宮廷文化華やかなハノーファー帝侯家※注1より嫁いだ母ゾフィー・ドロテアの影響を強く受け、音楽や読書に熱中する少年に育った。さらに養育係のラクール夫人がフランスで迫害されて亡命した新教徒ユグノー※注2であったため、より華やかなフランス文化に親しむ結果となった。しかし父王は音楽や芸術を軟弱なものとして嫌い、フリードリヒを立派な軍人に育てようとした。その教育方針は厳格な宗教教育と軍事や経済に関する実学の徹底であり、文学や音楽は遠ざけられてしまう。「父は子供達を思い通りにこね上げられる粘土だと考えていた」と後年フリードリヒは述懐している。そうした息の詰まる生活の中では、同じように厳しく育てられた姉ヴィルヘルミーネの存在がフリードリヒの心の拠り所となった。二人は長じてからも度々手紙を交換し合い、その関係は姉が一七五八年に亡くなるまで続いたのだった。
息子が芸術にうつつを抜かすことがあると、父王は鞭で激しく打ち据えたが、この暴力的な躾は父と子の間の溝を深める結果しか生まなかった。一七二八年、ザクセンのドレスデンを訪問したフリードリヒが煌びやかな雰囲気に呑まれて酒色に耽ってしまうと、父の怒りは頂点に達した。帰国後の王太子を待っていたのは、もはや虐待の域にエスカレートした父王からの仕打ちだった。そうしたことからいつしかフリードリヒは、父は自分の王位継承権を剥奪し、次期王に弟のアウグストを指名するつもりなのだと考えるようになっていった。
注1:神聖ローマ皇帝を選挙し、帝国の重要事項を討議する特権を持つ諸侯。
注2:フランスの新教徒、特にカルヴァン派信徒の俗称。16世紀前半から次第に増加、16世紀後半には旧教徒との間に宗教内乱(ユグノー戦争)が勃発した。


逃亡計画と友の死
この頃、フリードリヒとイギリス王女との婚姻話が持ち上がっていたが、フリードリヒはこれを父の暴力から逃れる手段と捉え、一刻も早いイギリス行きを望むようになっていた。しかし話が一行にまとまらないとみるや、姉ヴィルヘルミーネへの手紙に「こうなったら逃亡する以外に方法はありません。私はイギリスへ逃げます」と記したその願望を、現実にしようと企んだ。
一七三〇年、ドイツ各地に散在する領地の巡察へ赴く父王の旅行に同行したフリードリヒは、ついに同年八月、逃亡計画を実行に移した。協力したのは親友のカッテ少尉とカイト少尉。しかしその企ては情報がもれたことですぐに露見してしまった。この時、「身を隠せ」というフリードリヒの手紙を受け取ったカイトがイギリスへ亡命したことで、事態は深刻化してしまう。
当時のプロイセンはオランダと接するユーリヒ・ベルク領の継承権を主張していたが、こうした外交問題を解決する際に、皇帝の支持を取付けようとする皇帝派と、イギリス王室の後ろ盾を得ようとする親英派が王宮内で対立し、主導権争いを繰り広げていた。そのため王はこの一件を息子の若気の至りではなく、次期王を手中に収めてプロイセンへの影響力を強めようと企んだイギリスが、親英派を焚きつけて起こした謀略であると考えたのだ。十月に開かれた軍法会議では王の強い意向が反映され、カッテには死刑が、逃亡中のカイトには肖像絞首刑(本人不在のためその肖像が絞首刑に処せられる)が言い渡された。
カッテの処刑は十一月六日に執行されたが、フリードリヒは父王の命により、その光景を独房の窓から目撃させられることになった。粛々と刑場に進み出るカッテに、「私を許してくれ!」と叫んだフリードリヒは、友の死を見届けることなく断頭の剣が振り下ろされる前に失神してしまった。カッテは遺言状に「殿下に責任はございません」と書き残したが、暴力から逃れるという理由があったにせよ、小国とはいえ一国の王太子が逃亡を謀ればどういう事態を招くか、考えが至らなかったフリードリヒの責任は重いと言わざるを得ない。
その彼の罪について裁判では、「国政や王家の問題」が関わるため軍事法廷には管轄権が無いと結論づけていた。また皇帝カール六世やポーランド王、ロシアやザクセンからも助命嘆願書が届けられており、さらに王も冷静さを取り戻したこともあって極刑を免れ、キュストリンでの拘禁が命じられたのだった。
