本能寺の変の原因については、諸説が入り乱れ、百花繚乱の観を呈しているここでは事変半年前、信長・光秀の間に、初めて波風が立った四国政策の対立と長らく俗説とされてきた折檻問題に焦点を絞り、その経緯を徹底的に検証する
文=桐野作人(歴史群像2021年2月号)
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楊斎延一『本能寺焼討之図』。本能寺襲撃に材を採った3枚続大型錦絵(部分)。 内容は『絵本太閤記』そのもので、光秀家臣・安田作兵衛が信長に槍を突き付け、森蘭丸が信長を救うべく駆けつけている。庭では阿能の局(濃姫モデル)も、長刀を振るって奮戦している。
本能寺の変研究 ――過去と現在
本能寺の変の真相や明智光秀の謀叛の動機の解明は、江戸時代から戦前まで玉石混淆(ほとんど石だが)、百家争鳴の状況が長く続いてきた。
戦後になってようやく、実証的な仮説が登場した。たとえば、高柳光寿氏は次の四つの動機を挙げた(人物叢書『明智光秀』)。
①これ以上の地位上昇は望めず
②羽柴秀吉との競合
③信長の四国政策の転換による疎外感
④信長の冷酷な性格
高柳氏はこれらを踏まえたうえで、謀叛の動機として「光秀も天下がほしかった」として野望説を提唱した。
それに対して、桑田忠親氏は高柳氏の野望説を批判しながら、謀叛の動機として武士の面目を潰されたことによる怨恨説を主張し、その主な典拠としてフロイス『日本史』に書かれた信長による光秀折檻事件や四国の長宗我部元親対策をめぐる信長の先約不履行を挙げている(『織田信長』『明智光秀』)。
その後、本能寺の変研究は一般の歴史ファンや好事家の格好のネタになったためか、研究者には敬遠されて停滞した。
近年は拙著『信長謀殺の謎』(一九九二年刊)あたりから以前はなかった諸黒幕説が登場するなど新たな言論状況が生まれたが、現在は諸黒幕説はことごとく否定されて、先祖返りした感がある。
先祖返りといっても、ただ旧態に復したわけではなく、新史料の発見や、織田信長と明智光秀の関係を多角的に再検討することで、実証的な研究を積み上げていこうという傾向が強くなっている。
本稿もそうした傾向を意識したうえで、本能寺の変の真相に少しでも近づこうと思う。


信長と光秀の不仲は最後の半年だけ
信長と光秀の出会いは確実なところで永禄十一年(一五六八)である。それから本能寺の変まで足かけ一五年間の関係があった。そのうち、両者の不仲や確執らしきものが史料に顕れるのは最後のわずか半年間だけである。その半年間に光秀謀叛の動機や原因が潜んでいると考えるのが常識的だろう。
光秀は将軍義昭に仕える幕臣でもあったが、信長と出会ってからすぐさま、京都奉行に任命された。そして佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉らと肩を並べる部将に取り立てられている。しかも、他の部将が各地に転じても、光秀は村井貞勝とともに京都代官を務めているから、よほど行政能力に長けた吏僚の才があったのだろう。
元亀二年(一五七一)、比叡山延暦寺の焼き討ちののち、光秀は信長から近江志賀郡と旧山門領(延暦寺の旧領)を与えられ、織田家臣団での出世レースのトップに躍り出た。しかも、三層の天主をもつ坂本城造営で築城の才も示したのである。
天正三年(一五七五)八月、越前一向一揆攻めでは羽柴秀吉との巧みな連携で一揆勢を撃破して勝利を収めた。さらに十月には京都代官から丹波攻めの大将を命じられた。
丹波攻めは同七年(一五七九)十月までに完了し、光秀は改めて丹波・丹後の両国を与えられた。なお、丹後は光秀の監督下で細川藤孝・一色満信が領有する形となった。
光秀の丹波平定は四年の年月がかかっているが、その間、大坂本願寺、紀州雑賀、松永久秀、荒木村重、播磨三木城などの攻撃にも動員されており、専念できたわけではなかった。おそらく正味二年程度で丹波平定を成し遂げていることになる。これもまた武将としての才能を示したといえるだろう。
信長に仕えてからの一〇年間、光秀は主に吏僚、築城、武将という三分野で才能を遺憾なく発揮した。それに伴い、信長の光秀への信任は非常に厚いものがあった。同八年、佐久間信盛父子を追放した折檻状に「丹波日向守働き、天下の面目をほどこし候」という一節は信長の光秀への揺るぎない信頼の象徴ともいえる文言だった。
余談ながら、あえて指摘すれば、丹波平定戦など光秀の合戦はほとんどが城攻めであり、大規模の野戦の経験は少ないのではないか。それが山崎合戦で不利に作用したといえるかもしれない。
このように、光秀の忠節と信長の信任という形で両者の関係は十数年間極めて良好だった。両者の亀裂が突如として起こるのは、天正九年(一五八一)十一月のことである。
折から四国政策において、信長は長宗我部氏を重視する方針だったが、これを阿波三好氏重視にドラスティックに転換したのである。
信長側近の松井友感(友閑)が讃岐の国衆安富氏に宛てた書状(十一月二十三日付)に注目すべきことが書かれていた(『志岐文書』)。
「(前略) 其れについて阿・讃の儀、三好山城守(康長)にいよいよ仰せ付けられ候、其の刻み、御人数一廉相副えられ、即時に領国残らず一着候様に仰せ付けらるべく候」
信長は阿波・讃岐の両国を阿波三好氏の長老格である三好康長(笑岩入道)に平定を任せるというのである。
ところが、長宗我部元親は同四年(一五七六)から阿波侵攻を開始しており、すでに阿波南部を勢力下にしていたし、讃岐でもその西部を平定しつつあったのである。
信長の四国政策の転換は長宗我部氏の既得権益を一方的に反故にするものだったから、同氏の不満と反発は必至だった。光秀は長宗我部氏の取次だったから、いわば両者の板挟みになったともいえた。
光秀と信長の関係に初めて軋轢らしきものが生じたのである。本能寺の変のわずか半年前の出来事だった。
とすれば、光秀に謀叛の動機が生じたとすると、この半年間に形成されたといえるのではないだろうか。光秀はこれ以前、信長から国持大名として厚遇され、畿内方面軍司令官という高い地位へと昇進している。これ以上ない「御恩」を蒙っているわけだから、さすがに謀叛の動機があったとは思えないのである。