第二次大戦期の姿から弱小国のイメージを抱きがちなポーランド。だが15世紀以降、ドイツ騎士団を屈服させ誕生した「ポーランド・リトアニア共和国」は名だたる強国を打ち負かし、黄金期を謳歌した。その栄光とやがて迎えた亡国の日々を振り返る。
文=荒川佳夫(歴史群像2020年12月号)
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ポーランドの栄光の時代を象徴する、ウィーン攻防戦でのヤン三世・ソビエスキー王。ポーランドの愛国的歴史画家ヤン・マテイコ画。神聖ローマ帝国首都ウィーンを包囲したオスマン軍を撃破した後、その陣営跡でローマ教皇への勝利の報告書を託す王を描く。カトリックの擁護者として、ポーランドの名は燦然と輝いた。人物右はポーランド強国への道を開いたブワディスワフ二世。左は国土分割前の最後の国王、スタニスワフ二世アウグスト。
ピアノの詩人と称されるポーランド出身の作曲家フレデリック・ショパンが残した作品の中に、「革命のエチュード」という曲がある。
その曲が生まれた当時、ポーランドは周辺国のロシア、オーストリア、プロイセンによって国土を分割され、独立した国家としての実体を失っていた。その状況下にあった一八三一年、ポーランドの民衆は自由と独立を求めて立ち上がったが、十一月蜂起と呼ばれたその革命は数と装備に勝るロシア軍によって鎮圧されてしまう。当時、故郷を離れてパリへと向かう途上にあったショパンは、革命の失敗に絶望し、それに加われなかった己の肉体の弱さを嘆いた。そしてこの時の想いが「革命のエチュード」を生んだといわれている。
十八世紀末に国家の分割という悲劇に見舞われて以降のポーランドの歴史は、抵抗と蜂起の繰り返しで綴られているといっても過言ではない。しかしそのポーランドが、中世から近世にかけては周辺国を圧するほどの領土を誇り、「黄金のポーランド」と称されるほどの繁栄を手にしていた大国だったことは、わが国ではあまり知られていないようだ。今回はその黄金期(十五世紀末~十七世紀初頭)のポーランドにスポットを当て、いかにして繁栄を手にし、またなぜに国家分割という衰亡に至ったのかを見てゆくことにしよう。
シュラフタ共和国
ポーランド・リトアニア連合の成立
ポーランドという国名の語源は、スラブ語で「平原」を意味する「ポーレ」だとされる。
歴史上、ポーランド最古の王朝を築いたのは、周辺のスラブ系諸部族を統合したポラニェ族ピャスト家出身のミェシュコ一世だといわれている。十世紀末、そのミェシュコがカトリックに改宗したことが、それまでスラブの神々を信仰していたポーランドにキリスト教が広まるきっかけとなった。
しかし中世のポーランドにとって最大の出来事は、シュラフタと呼ばれた貴族階級への特権授与と、隣国リトアニアとの合同であろう。一三七〇年にポーランド王として即位したルドヴィク一世は後継男子に恵まれず、娘のヤドヴィガを後継王に指名した。その際ルドヴィクはシュラフタ達の支持を得るため、彼らの歓心を買う政策を打ち出した。当時貴族たちは国王に各種の税を納めていたが、城塞修理義務と領地一ワン(約二五ヘクタール)ごとに発生する土地税以外の一切の税負担を免除すると約束したのである。コシチェの特権と呼ばれたこの優遇策に守られたシュラフタは、次第に発言力を増してゆくことになる。
そのシュラフタに認められたヤドヴィガが王位に就いた一三八二年当時、ポーランド最大の懸念はバルト海沿岸部で勢力拡大を続けるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の存在だった。リヴォニア(現在のエストニアからラトビア)で活動していたリヴォニア騎士団と合同して勢力を拡大した彼らは、異教徒の土地を征服するだけでは飽き足らず、もともとはポーランドの領土であった東ポモージェ(東ポンメルン)さえも占領し、北方からポーランドを圧迫し始めた。
このドイツ騎士団にとっての最大の攻略目標が、ポーランドの隣国リトアニアであった。現在では東欧の小国という印象のあるこの国は、十四世紀末のその当時、領土のみでいえばポーランドをしのぐ超大国であった。その領土は現在のリトアニアにとどまらず、ラトビア、ベラルーシ、ウクライナ、そしてロシア西部にまでまたがる広大なものだった。そこに住まう人々は原始的な異教の神々や、キリスト教の中でもロシア正教会を信仰しており、カトリックの先兵であるドイツ騎士団からみれば格好の攻撃対象であった。
共通の脅威を前にしたポーランドとリトアニアが選択した手段が、ポーランド王ヤドヴィガとリトアニア大公ヤギェウォとの婚姻を成立させ、両国を合同することで国力と戦力の増強を図るというものであった。ヤギェウォはカトリックの洗礼を受けたのち、ヤドヴィガと同権の※注1ポーランド王ブワディスワフ二世となり、一三八六年、ポーランドとリトアニアの同君連合、ヤギェウォ朝を誕生させた。
新王ブワディスワフ二世が指揮したポーランド・リトアニア連合軍は一四一〇年、グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)においてドイツ騎士団を破り、その東方進出の野望を打破することに成功する。この戦い以後もドイツ騎士団との戦いは続くが、ポーランド・リトアニア連合は勝利を重ね、やがて十六世紀に入ると敗北を認めた騎士団がポーランド王に臣従するという結末を迎える。総長のプロテスタントのルター派改宗に伴い、彼らはルター派を信仰する世俗のプロイセン公国となり、ポーランド王の主権下でその後も存続してゆくことになる。
注1:ヤドヴィガと同権の=ヤドヴィガはポーランド王のみ(女王ではなく王)で、ブワディスワフ二世がポーランド王兼リトアニア大公となる。


だが、騎士団が築いたその国家を滅ぼさなかったことが、やがて痛恨事としてポーランド自身に跳ね返ってくることになろうとは、誰も知る由もなかった。
ドイツ騎士団に加え、リヴォニア騎士団もポーランド・リトアニア連合に臣従したため(世俗化した彼らはリヴォニア南部にクールラント公国を建国)、リヴォニアの大部分が連合の支配下に組み入れられることになった。そのため連合はリヴォニア侵出を狙うモスクワ大公国と衝突するが、その矢面に立ったリトアニアは国力を疲弊する結果となった。その事態に際しリトアニア国内では、ポーランドとのさらなる強い結びつきを求める声がシュラフタ層を中心に高まった(ヤギェウォ朝成立後はリトアニアの中小貴族もシュラフタの列に加えられた)。そして一五六九年、それはポーランド東部の町ルブリンでの会議で承認された「ルブリン合同」によって現実となる。
これ以後もリトアニアにはポーランドのそれに倣った行政機関と軍隊が残されたものの、両国は同一の君主と議会によって統治されるポーランド・リトアニア共和国(対外的には「最も輝かしいポーランド共和国」と呼称。そのため以後は単に「ポーランド」と表記)へと生まれ変わり、次の時代を迎えることになる。
