不安の収まらない家族らを残し、朝鮮水域に向かった特別掃海隊。約束と違い、そこは戦場だった! 相次いで触雷沈没する米掃海艇を目の当たりにしながら、遂に日本掃海艇にも悲劇が襲う。立ち直り任務を全うした彼らは、しかしその栄誉を胸の底に沈めなければならなかった。
文=手塚正己(歴史群像2020年4月号)
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イラストは、米第7艦隊主力と揚陸船団がひしめく元山沖に到着した母艇『ゆうちどり』(MS62)と第二掃海隊。このとき隊員らは、自分らが戦場にいることをひしひしと実感した(イラスト=舟見桂)。(右上写真)まだ掃海前の元山沖で触雷して艦首部を貫通する損傷を受けた米駆逐艦『マンスフィールド』。結局、仮艦首を付けて本国へ帰還、修理することとなった。(同下)昭和25年(1950)10月26日、機雷原にようやく開いた航路を通って元山に殺到するアメリカ第10軍団と第1海兵師団の上陸部隊。
隊員家族らの不安
昭和二十五年(一九五〇)十月七日、米極東海軍から朝鮮水域における掃海業務を要請された海上保安庁が臨時編成した日本特別掃海隊の各艇は、下関唐戸基地に集結すると、出動の指令を待っていた。
同日午前九時過ぎ、「MS62」に第一と第二掃海隊の山上亀三雄、能勢省吾の両指揮官が招集され、指揮官のみの打合わせが約三十分間行われた。この席上、田村久三総指揮官は「三十八度線は越えない」と明言した。
午前十時三十分、田村は各船艇から指揮官付を「MS62」に集め、「第一掃海隊は、本日一二〇〇(正午)仁川港外の会合点に、第二掃海隊は「MS62」とともに明八日〇四〇〇(午前四時)会合点に向け出港する」と命じた。また「MS62」は同日の午後五時に、対馬東方海上で佐世保から来る米艦艇と会合して、指令を受けることになったと述べた。ただし会合地点は、田村だけが承知していて知らされなかった。また全乗員に対して、「部外への口外は一切禁止」するよう指示された。
箝口をきつく申し渡されていたにもかかわらず、乗員の口から朝鮮への出動が家族に漏れていた。能勢指揮官の手記を見てみる。
『会議を繰り返している間にも、岸壁では掃海艇乗員の家族が来て騒いでいた。掃海隊が朝鮮に出動するらしいということを伝え聞いた一部の乗員の家族が、この下関まで駆け付けてきたのである。下関の唐戸桟橋に横付け中の掃海艇から主人を探し出して、
「アンタ、船を下りて!! 朝鮮には行かないで頂戴、掃海隊を辞めてうちに帰ってください」
と涙ながらに夫人達が主人に訴えているのである。主人の胸にすがりついて、日本の戦争は終わったのに今さら外国の戦争に参加することはないと、掻き口説いているのである。ある婦人の如きは、赤ん坊を抱いて駆けつけてきて、掃海艇が朝鮮に行くのなら、あなたはどうしても掃海艇を下りてくれと言ってきかない。
「どうしても行くというなら、この子を海に捨てて、私も死にますッ」
と悲痛な声で息巻いて手こずらしている夫人もいた。艇員仲間や艇長らが説得を重ねてようやく夫人達に諦めてもらい、その場を収めたのである』
同日の午後零時、山上亀三雄指揮官に率いられた第一掃海隊の「MS」(掃海艇)四隻と「PS」(巡視艇)一隻が、唐戸桟橋を離れた。第二掃海隊乗員と下関航路啓開部職員十数名、下関に在住する数組の家族が見送った。中でも近親者は悲痛な色を漂わせて、船影が関門海峡西口に見えなくなるまで、誰もその場を動こうとしなかった。
この第一掃海隊は三日後に朝鮮半島西岸の仁川港外に到着すると、英海軍フリゲイト艦『ホワイトサンド・ベイ』の監督下で、仁川から海州まで五〇マイル(約八〇キロ)の掃海を二一日間実施することになる。
第二掃海隊の田尻正司指揮官代理は前日、各艇長に「下船したい者があれば、申し出るように」と伝えていただけに、乗員の動静が気がかりだった。
そしてこの日、第一掃海隊が出港する昼前のことだった。 指揮官付一名と機関員一名が、家庭の都合を理由に退艇を願い出た。幸いにこの二名が抜けても、後任を補充する必要はなかった。すぐに受理して、出港前までに陸上へ配置換えの手続きを取った。以降、乗員からは何も言ってこない。予想に反して退艇願いが少なかったことに胸を撫で下ろしたが、その一方ではまだ出てくるのではないかと、不安を打ち消すことができなかった。
夕刻になって、「MS06」艇長の有山幹夫に伴われた機関長が田尻のもとを訪れた。機関長の後ろには、妻子と弟の姿もある。案の定、退艇の陳情だった。先に配置換えした二名と違って、今度は艇の心臓部を預かっている幹部である。出港は翌日未明と通達を受けている。となると残された時間は、十時間もない。まったく無茶苦茶な話である。いくら妻と子供、兄弟を帯同しての嘆願であっても、機関長を交代するような時間的余裕はない。
「もっと早かったなら交代の要員も手配できるけど、いまさら手遅れだ。済まんけど、行ってくれないか」
田尻は一時間余り言葉を尽くして説得に努めた末に、退艇申請をようやく取り下げさせた。