敗戦後、旧海軍軍人を中心に編成された掃海部隊。日本周辺水域に敷設された膨大な機雷を除去するため、彼らは日々、掃海業務に従事していた。そうした中、一部の部隊に突然、門司への集結が命じられた。その任務とは、激戦の渦中にある朝鮮半島での掃海であった──。
文=手塚正己(歴史群像2020年2月号)
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(上)昭和21年(1946)、神戸港に停泊している復員庁の掃海艇。左は元日本海軍の第六十八号駆潜特務艇、右は同じく第三十一号哨戒特務艇で、敗戦後はそれぞれ「駆潜特第68号」「哨特第31号」と呼ばれた。(下)昭和23年(1948)10月に実施された海上保安庁の閲艇式に参加するために神戸港を出港する掃海艇隊。掃海任務は、紆余曲折を経て運輸省の外局として設立された海上保安庁が行うこととなった。
平成二年(一九九〇)八月二日、イラクが突如として隣国のクウェートに侵攻。全土を制圧し、半年間にわたり占領を続けた。これをきっかけに国際連合(国連)は、米国や英国など三四か国からなる多国籍軍の結成を決議した。翌平成三年(一九九一)一月十七日からイラクへの攻撃が開始され、同年二月二十八日には、多国籍軍は圧倒的勝利を収めてクウェートを解放した。
こうして「第一次湾岸戦争※注1」は終結したが、厄介な後始末が待っていた。
イラクはペルシャ湾北部のクウェート沖合に約一二〇〇個もの機雷を敷設し、その存在がペルシャ湾を通航する各国の船舶にとって重大な脅威となった。中東地域から原油の七割を依存している日本にとっても、これは深刻な問題であった。そして多国籍軍に参加する各国からは、資金だけ供出して武力参加をしない日本に対して、資金面だけでなく人的貢献を求める声が高まった。
その結果、日本政府は、海上自衛隊が多国籍軍部隊と協力してペルシャ湾で掃海作業を実施することを決定した。新編成された「ペルシャ湾掃海部隊」は、掃海母艦『はやせ』および掃海艇四隻、補給艦『ときわ』の計六隻からなり、第一掃海隊群司令の落合畯一等海佐(防大七期)以下、五一一名の隊員が派遣されることとなった。掃海隊は、六月五日から九月十一日までの九九日間にわたって掃海作業「湾岸の夜明け」作戦(Operation Gulf Dawn)を実施し、船体や乗員に事故もなく三四個の機雷を処分した。
十月三十日、「ペルシャ湾掃海部隊」は呉港に無事帰着を果たした。翌三十一日、落合司令は呉の桟橋に集合した隊員に対して、掃海部隊解散の辞を述べた。その内容について、当時海上幕僚長として掃海隊を送り出した佐久間一元海将(防大一期)が筆者に次のように語っている。
「解散の訓示というのは、三つ言ってましてね、一つ目は『感謝の気持を忘れるな』、『それは外務省や防衛庁(当時)、海上幕僚監部、各地方隊をはじめとする関係部署、多くの国民の支援があったからできたんだ』と。二番目は『自分たちは任務を達成できたことは誇りにできる。しかしそれは口に出すな。誇りとして自分の胸の中にそっとしまっておくべきだ』、『見せびらかしたり、ペラペラしゃべったら、それは途端に、ゴミ、チリ、アクタのホコリと化してしまう』と。三番目は『任務が達成できたのは訓練のおかげだ。だから今日から、明日に備えて腕を磨こう』と言ったんです。凄い訓示だなと感じ入りました。あれは、落合でなければ言えないなと思いましたね」
このペルシャ湾における機雷除去作業から四一年前にも、日本は掃海隊を海外に派遣していた。ただし、敗戦から五年後の時期で、海軍は解体されて存在していない。それでも日本人の手によって編成・運用された掃海隊は、戦争真っ只中の朝鮮水域へと乗り出して行ったのである。
注1:第一次湾岸戦争=1990年8月2日のイラクによるクウェートへの侵攻をきっかけとして起こった戦争は湾岸戦争といわれるが、これを「第一次湾岸戦争」、2003年の米軍を中心としたイラク侵攻作戦を「第二次湾岸戦争」と呼称することもある。
戦後復興の脅威となった機雷
昭和二十年(一九四五)十一月三十日、海軍省の構内中庭に、米内光政海軍大臣(海兵二十九期・大将)を筆頭に同省職員が参集していた。その彼らを前に、元海軍軍楽隊の隊員による吹奏が行われた。最後の曲目は『軍艦行進曲(マーチ)』であり、荘重かつ勇壮な旋律が、焼け残った赤レンガの建物に反響した。これを耳にした人たちは、海軍への葬送曲だと涙した。
この日、『本日海軍省廃止セラル 真ニ感無量ナリ……』から始まる米内海相の訣別の辞が、残存する海軍全般に向けて発信された。明治五年(一八七二)二月二十七日の新設以来、七三年にして海軍省は廃止となり、帝国海軍はその姿を消した。
だが、正確には海軍のすべてが日本国から跡形もなく消え去ったわけではなかった。そこには海軍の血脈が、か細い一本の糸のように受け継がれていた。
翌十二月一日、海軍省は第二復員省(陸軍は第一復員省)と名称を変更して、終戦処理業務に取りかかった。中でも第二復員省がただちに遂行しなければならないのは、「復員並びに援護業務」「機雷の掃海業務」「艦船運行と管船業務」の三つであった。
これら業務の重点は、
①在外部隊(在留邦人を含む)の円滑な復員の実施。
②戦死者の遺族、傷痍軍人並びに復員者に対する扶助・厚生業務の実施。
③掃海及び復員輸送。
④復員に関する残務処理。
⑤連合軍の要求による諸資料の作成。
などの五項目であった。特に③の「掃海及び復員輸送」には、多くの旧海軍軍人が必要となる。
「復員輸送」については、すでに九月中旬に海軍省軍務局に「艦船運航班」が、各鎮守府と警備府に「運航部」が設置されて、引揚輸送業務を開始していた。だが引揚対象者は陸海軍将兵や在留邦人など、六〇〇万人から七〇〇万人と予想され、主に東アジア、東南アジアなど、広範な地域に分散している。彼らを内地まで輸送するには、海軍に残されていた空母や巡洋艦、潜水母艦、駆逐艦、海防艦、病院船などの艦船を総動員したが、これだけでは不足だった。そこで船舶運営会※注2が管理する船舶や、米国からの貸与船艇などが動員され、その数は四一九隻にも及んだ。
もう一つは、本稿の主題である「掃海業務」についてである。
米軍による日本本土周辺水域への機雷敷設作戦は、昭和二十年三月二十七日にテニアン島から飛来したB-29六〇機による下関海峡と広島湾への機雷敷設から開始された。
同年八月十四日までに延べ一一五七機のB-29が投下した機雷の数は、瀬戸内海全域に七二二四個、日本海沿岸に三二七〇個、九州沿岸に五一三個、太平洋沿岸に一一七個、合計一万一一二四個を数えた。また、それ以前の昭和十七年(一九四二)から十八年にかけて、潜水艦によって太平洋沿岸の港口や水道、岬周辺などに少数の機雷が敷設されていた。
注2:船舶運営会=戦時中の昭和17年(1942)に国家総動員法第18条で認められた特別法人。戦時における海運や商船を管理・統制することを目的とした組織で、戦後は運輸省の管轄下に入ったが、昭和25年(1950)に正式に商船管理委員会へと改組。昭和27年には解散となった。

機雷の種類は、磁気機雷、音響機雷、水圧機雷(磁気と水圧の複合機雷を含む)となっている。これらの機雷はいずれも深度の浅い海底に置かれ、その上を航行する艦船に対して感応することから、「沈底式感応機雷」と称されていた。

磁気機雷は鉄製の船体に、音響機雷は船体が発するエンジンやスクリュー音に、水圧機雷は船体が起こす水の圧力にそれぞれ感応して、起爆するようになっている。
これら米軍の感応機雷とは別に、日本海軍が敷設した機雷もある。日本本土周辺の重要な港湾や水道、海峡に、敵潜水艦に対する防御用として五万五三四七個、また航路の安全を図るため九州と台湾の間に一万四九六〇個の触発係維機雷と、上陸阻止用として約三〇〇個の水際機雷を、昭和十六年から終戦まで敷設していた。
係維機雷のほとんどは九三式機雷で、海底に沈められた係維器から伸びた係維索(ワイヤーロープ)の先端に爆薬を納めた罐体を接続して、海面下に沈めておく。球状の罐体には四個の角のような触角あって、それに船体が触れると爆発する仕組みになっている。
ここで日本の周辺水域に敷設された機雷について整理すると、次のようになる。米軍側が一万一一二四個、日本軍側が五万五六四七個、合計六万六七七一個となり、この膨大な数の機雷が日本沿岸の海中に眠っていたのだ。これに加えて、昭和二十四年(一九四九)になると、日本海方面にソ連から漂流してきた浮遊機雷が発見され、翌年の朝鮮戦争勃発前後からその数が増し、津軽海峡では青函連絡船の運航に危険が生じた。
日本を取り巻く主要航路や港湾の入り口は、沈潜した無数の機雷によって寸断され、戦後復興を著しく妨げる要因となった。現に米軍が敷設した感応機雷による被害は、昭和二十八年二月までの間に旧海軍艦艇一三、一般船舶一五二の計一六五隻が沈没・損傷した。また人員の被害は、死亡および行方不明一二九四名、重軽傷者四〇二名を数えた。
このように航路の安全確保は、終戦処理業務の中でも復員業務と並んで喫緊の課題であった。そのため終戦の日をもって、戦争遂行の目的で行われていた掃海作業は、日本復興のための業務に切り替わって継続されることになった。
昭和二十年九月になって連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥から機雷処理の指令を受けた海軍省は、軍務局に「掃海部」を設置し、主要航路の航路啓開、つまり掃海作業を開始した。
掃海業務に従事した船艇には哨戒特務艇と駆潜特務艇の二種類があって、両艇とも磁気機雷に感応しにくい木造艇である。だが、乗組員たちは常に身の危険にさらされた状況で、困難な作業に従事した。一歩間違えれば、機雷の爆発によって船体もろとも打ち砕かれて、死にいたることになるのだ。終戦以降七年間に、殉職者の数は七七名に達したことからも、掃海がいかに命がけの作業であるかが窺い知れる。
犠牲者は日本だけでなく、米海軍でも発生した。最初の掃海は、終戦後一三日が経過した八月二十八日から掃海型駆逐艦七隻、掃海艇一六隻による東京湾の掃海から開始された。その後、鹿児島湾、高知、佐世保、長崎、和歌浦港(和歌山県)、豊後水道、宗谷海峡などで掃海作業を実施した。米海軍による掃海は昭和二十一年四月十四日をもって終了したが、この間に対馬海峡を掃海中の掃海艇『ミネビット』が触雷して沈没、三一名の犠牲者を出している。