天一号作戦 駆逐艦乗りの沖縄特攻

天一号作戦 駆逐艦乗りの沖縄特攻

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『大和』の奮戦にばかり焦点が当てられ、語られてきた「天一号」作戦。しかし、そこには巡洋艦『矢矧』を含め、歴戦の艦長に率いられた八隻の駆逐艦を中心とする第二水雷戦隊最後の勇姿があった。

多数の当事者から聴き取った証言を交え、鮮明によみがえる駆逐艦と米軍機の激闘。語り継ぐべき帝国海軍駆逐艦乗りの死に際と生き様!

文=手塚正己(歴史群像2014年4月号)

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(写真上)駆逐艦『朝霜』の最期(米軍撮影)。本隊より後落したため沈没は目撃されていないが、艦はすでに停止して重油が漏出していることがわかる。 (写真下)被弾を重ねる『大和』(中央)を護衛しながら追随する『冬月』(左)と『初霜』。『初霜』は本作戦参加駆逐艦の中で一番古い初春型の一隻であるが、ほぼ無傷で戦いを終える。


太平洋戦争のはじまりから終戦までに、海軍は戦時中の建造を含めて一七四隻の駆逐艦を保有していた。これら駆逐艦の基準排水量を合計すると、二七万九二八〇トンになる。

一方、世界最大と称された戦艦『大和』『武蔵』、空母『信濃』の基準排水量は一隻六万四〇〇〇トンで、三隻を合わせると一九万二〇〇〇トンと、全駆逐艦の排水量に近い桁数になる。

わずか二〇〇〇トンほどしかない艦に、二〇〇名前後の乗員がつめ込まれているのだから、駆逐艦乗りの数が圧倒的に多くなるのは当然といえる。

筆者はこれまでに多くの元帝国海軍軍人と面談を重ね、貴重な証言を得てきた。対象者は水上艦艇や潜水艦の乗組員、航空機の搭乗員、陸戦隊員など様々だが、実にその半分は駆逐艦乗りなのである。

駆逐艦には、防御という発想がほとんどない。外舷から上甲板を覆う甲鈑こうばんの厚さは二〇ミリにも満たない。魚雷を一本でも喰らえば轟沈は必至で、小型爆弾でも当たり所が悪ければ一巻の終わり、よくて航行停止に陥る。至近弾の破片であっても外舷は破壊され、機銃弾でも簡単に船体を貫かれてしまう。「ブリキ細工」のように脆弱な造りの駆逐艦ではあるが、ほかの艦にはない速力と長い航続距離、そして強力な魚雷を装備している。この特性を活かした駆逐隊は、暗夜の洋上で敵の艦隊目がけて突進し、雷撃を敢行する。

ただし、魚雷戦の機会などは滅多にない。通常は艦隊や船団の直衛、兵員や武器弾薬、糧秣の輸送、潜水艦の制圧、溺者救助など、「何でも屋」「便利屋」としてこき使われた。駆逐艦乗りは「車曳ひき」「乞食商売」などと自称していたが、言葉の裏には「俺たちが海軍を支えている」という、強い自負心を抱いていた。

帝国海軍最後の海戦

戦局は一向に好転の兆しを見ないままに、開戦から三年が過ぎた。これまで占領していた南方方面の島嶼のほとんどは奪われ、フィリピンのルソン島から硫黄島まで戦線は縮小していた。

昭和二十年(一九四五)二月一日、神奈川県日吉の連合艦隊司令部で、作戦の打ち合わせが行われた。

このとき神重徳かみしげのり首席参謀(海兵四八期・大佐)が、「第二艦隊は大和を旗艦とし、第二艦隊を特攻的に使用したい」と発言した。これが「天一号」作戦の発案となり、「海上特攻隊」の編成、出動へとつながってゆく。

連合艦隊も軍令部も、停泊しているだけで日々燃料を消費する『大和』の使い道に苦慮していた。『大和』を出撃させれば、過去の戦訓が示すように、敵艦載機群に袋叩きにされるのは目に見えている。それなら内地の沿岸に配備し、浮かべる砲台として敵の本土上陸に備えようとも考えられたが、現実性に乏しい。このような議論を重ねているときだった。

二月二十六日にルソン島のマニラが占領され、三月十七日には硫黄島が玉砕した。さらに米軍は、同月二十三日から二十四日にかけて、沖縄本島に空襲と艦砲射撃を行った。この敵の動きに軍令部は、「沖縄攻略作戦開始」は近いと情況判断、二十六日になって連合艦隊司令部は、「天一号」作戦を下令した。

四月一日、米軍は大挙して沖縄本島に上陸を開始。敵の本土来攻を防ぐ最後の砦である沖縄の失陥だけは絶対に避けたい。当初予定されていた第一遊撃部隊の佐世保回航は、この時点までに二転三転し、『大和』以下の艦艇を沖縄近海に進出させることになった。そして、これにより誘い出した敵艦隊を、航空特攻と「回天かいてん」の水中特攻によって撃滅しようと計画した。

ここに生起したのが、帝国海軍が艦隊を組んで出陣する最後の戦いとなった「坊ノ岬沖海戦」である。このとき第一遊撃部隊の戦艦『大和』と軽巡洋艦『矢矧やはぎ』に従ったのは、八隻の駆逐艦だった。

艦隊の陣容と幹部職員名を一覧にして表に示す(下の表参照)。

三名の司令と八名の駆逐艦長のほとんどは、開戦以来、戦場を駆けまわり十分に砲煙の臭いを嗅いできたベテラン揃いである。なかでも『朝霜』の杉原与四郎艦長はこれまで『朝顔』『皐月さつき』『初霜』『五月雨さみだれ』と四隻の駆逐艦長を務めている。艦長のうち『初霜』の酒匂雅三さこうがぞう艦長は三十一歳で、『濱風はまかぜ』の前川萬衛まえかわまんえい艦長とは一〇期も離れている。その若き酒匂艦長は、すでに昭和十八年十月から、基準排水量一二一五トンの老朽艦ではあったが、駆逐艦『澤風さわかぜ』の艦長として前線に出ている。

当時の日本海軍には、本作戦に参加することになった八隻以外に『大和』護衛の任を全うできる駆逐艦と駆逐艦長はわずかしかいない。

第二水雷戦隊旗艦『矢矧』の指揮下には三個駆逐隊が付属している。ところが本来の駆逐隊は四隻で編成されるはずなのに、第二十一駆逐隊は三隻、第十七駆逐隊は三隻、第四十一駆逐隊は二隻と、どれもが定数を割っている。

いずれにしても、軽巡『矢矧』とわずか八隻の駆逐艦で、『大和』を護衛しなくてはならない。ひとたび太平洋上に進出すれば、敵艦隊と砲火を交える以前に敵艦載機の襲撃を受けるのは必至であろうと、どの司令や艦長も覚悟していた。

出撃直前、『大和』艦上で撮影された主要幹部。前列左から3番目は司令長官の伊藤整一中将、右から3番目は参謀長の森下信衞少将。森下は『大和』の第4代艦長を務め、有賀幸作艦長の前任者でもあった。前列中央は中村俊久侍従武官(中将)。

海上特攻の命令下る

出撃前夜

四月五日午後一時五九分、連合艦隊司令部は海上特攻隊、すなわち第一遊撃部隊に対して「黎明沖繩ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ」と、出撃準備を下令した。さらに午後三時には「黎明時沖繩西方海面ニ突入 敵水上艦艇竝ならびニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ」と、海上特攻の実施命令を発した。

夕刻になって、山口県中南部の三田尻沖に在泊していた艦艇のほとんどはすでに呉軍港で可燃物の陸揚げを終えていたが、それでも残りの不要物件や機密書類などを残留艦に移載した。また、数隻の駆逐艦は僚艦に横付けして、燃料の補給を受けた。

各駆逐艦では、夕食後に「酒保しゅほ開け」が通達された。いわゆる「出撃祝い」である。乗員には正式に伝えられていないが、二、三日前から「沖縄への特攻」の噂が囁かれていた。酒保が開かれ、飲み食い自由と告げられた彼らは、明日は沖縄に出撃だと受け止めた。

乗艦間もない若い兵隊は別として、ほとんどの乗員はこれまでに数えきれないほど出撃を経験している。ひとたび軍港や泊地を出れば、今生の別れと腹が定まっているだけに、誰もが数日後の運命など気にする風もなく──内心では暗い気持ちの者もいただろうが──、司令や艦長から最下級兵まで飲みかつ食って、祝いの席は大いに盛り上がった。

一升瓶をぶら下げた艦長や分隊長が兵員居住区に顔を出す頃になると、酒宴は最盛期を迎えていた。軍歌から歌謡曲まで飛び出し、自慢の踊りを披露する者まで現れた。

六日午前六時に第一遊撃部隊の大部は、徳山港外(一部は港内)の錨地に集結した。ここでも前日に引き続いて、不要物件や機密書類の陸揚げが行われ、『大和』と駆逐艦二隻は第三海軍燃料廠ねんりょうしょうから燃料の補給を受けた。

このころ南方からの重油は途絶していて、国内の備蓄量は半ば底を尽きかけていた。そのため軍令部からは、「徳山に於おける補給量は二〇〇〇屯とん以内」とするよう命ぜられている。つまり、片道燃料で沖縄海域に突入せよというのだ。だが実際には違っていた。

連合艦隊機関参謀の手配によって簿外の重油を積んだという説と、第三燃料廠の職員が残油をかき集めて供給したという二説があるが、ともかく関係者の尽力によって『大和』は満載六〇〇〇トンのところ四〇〇〇トン、『矢矧』は一二〇〇トン、各駆逐艦は満載にできた。これだけの燃料があれば、沖縄まで往復してもお釣りが返ってくる量だ。

午後一時、『大和』において作戦打ち合わせが行われた。参集したのは第一遊撃部隊の伊藤整一司令長官と幕僚、第二水雷戦隊の古村啓蔵こむらけいぞう司令官と幕僚、各駆逐艦長、連合艦隊の草鹿龍之介くさかりゅうのすけ参謀長(海兵四一期・中将)と三上作夫みかみさくお作戦参謀(海兵五六期・中佐)らであった。

作戦打ち合わせは、森下信衞のぶえい参謀長の口達、草鹿参謀長の本作戦に関する説明、伊藤長官の訓示と続き、首途を祝し乾杯が行われて終了した。のちに古村司令官は出撃する側の気分を、次のように回想している。「……このときの連合艦隊参謀長の説明の中に、『一億総特攻の先駆せんくとなって欲しい』という言葉が強い印象となって残っている。当時の感情では、この『一億総特攻の先駆』ということで、もう何もいう必要はなくなった。今となると、一億総特攻などと、理論的には妙なことになるが、当時はスンナリと受け入れてしまったわけである」

前川萬衛艦長は『濱風』に帰ると、磯山敦美いそやまあつみ航海長(海兵七二期・中尉)に、会議の内容を語った。

「大和は沖縄の海岸にのし上げて砲台になり、弾丸が尽きたら乗員は陸戦隊になるんだ。ただし、基本方針はそうなっておるが、脚の遅い戦艦がおったら沖縄までたどり着けんから、大和に航空攻撃を吸収させて、水雷戦隊を敵泊地に突っ込ませるということだ。まあ、このほうが成功の可能性があるだろうな。それから、落伍艦は見捨てて、ひたすら沖縄を目指すという方針だから、沈められたら一巻の終わりだよ」

磯山航海長は、溺者救助を期待できないのは仕方ないが、艦隊が沖縄に到達する以前に、敵機動部隊の艦載機から集中攻撃を受けるのは確実だろうと受けとめた。となれば「いよいよ最期だな」とは思ったが、「とりあえず、死ぬまで生きればいいんだ」と、それ以上は深く考えなかったそうである。

駆逐艦長は誰一人として、出撃前の訓示を行っていない。形式ばったことを嫌うのが水雷屋の気質なのだが、どの艦長もこれまで数えきれないほど死地に赴いているので、いまさら訓辞もないものだというのが本当のところらしい。そんなわけで、兵員には艦長に代わって分隊長が訓辞した。

『濱風』では福士愛彦砲術長(海兵七一期・大尉)が、砲術科員を上甲板に集めた。

「わが艦隊は海上特攻隊として、沖縄に向けて出撃する。特攻である以上、生還は期し難い。沖縄に到達したら駆逐艦の俊足を生かし、砲雷撃を行い、敵艦船を撃滅する。燃料がなくなれば、陸岸に乗り上げて陸上砲台になるから、砲術科分隊員は最後まで戦える」

さらに各部に対して細かい注意が続き、最後に「肌着と褌ふんどしは新しいものに取り換えておくように」と達せられ解散した。