タイ王国戦史

タイ王国戦史

WWⅡ 枢軸国側唯一の戦勝国

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太平洋戦争で日本の同盟国だったにもかかわらず、終戦後には戦勝国の仲間入りを果たすことに成功したタイ。その背後には欧米諸国の政治的な思惑とタイの巧みな外交戦略があった。

文=山崎雅弘(歴史群像2014年2月号)

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写真は、1943年ヴィッカース中戦車を前に整列するタイ兵たち。


東南アジアで唯一の独立国だったタイ

太平洋戦争が始まった時、日本軍が展開した東南アジアの諸地域がいずれも「欧米白人国家の植民地」であったかのようなイメージは、現在もなお日本では根強い。

その原因の一つは、当時の日本政府がこの戦争、すなわち「大東亜戦争」の構図を「東南アジア植民地の欧米白人支配からの解放」という形で内外に宣伝したことにある。この構図によって日本軍の軍事侵攻を「解放戦争」という大義で正当化するためには、東南アジアの諸地域が「アジアの先進国である日本の助けを必要としている後進地」だというイメージを、特に日本国内で一般化する必要があったのである。

しかし実際には、真珠湾攻撃が行われた一九四一年十二月の時点で、東南アジアにおいてすでに独立を保持している「日本の助けを必要としていない国」は存在した。

英領ビルマ(現ミャンマー)および同マラヤ(現マレーシア)と仏領インドシナ(仏印=現ベトナム、ラオス、カンボジア)に周囲を囲まれた、仏教国タイである。

日本の側から見れば、太平洋戦争の期間中、タイは(日本の衛星国である満州国を除けば)実質的にアジアで唯一の同盟国という存在だった。しかし、駐留日本兵のタイ人に対する振る舞いなどが原因で、タイ国内での日本人のイメージは急速に悪化し、戦況が連合国の優勢へと傾き始めると、タイ政府は日本から距離を置く姿勢をとるようになる。

当時の日本政府が掲げた「大東亜共栄圏」という東南アジアの(実質的な)統治構想とは異なる形で、独自の「国づくり」を進めていたタイは、太平洋戦争が激化の一途をたどる中で、東の日本と西のイギリス、そして「親独的中立」のヴィシー政府※注1に属する仏印総督の思惑に翻弄されながら、大国の支配に屈することなく主権を守り続けた。

そして、太平洋戦争のほぼ全期間を通じて日本の側に属していたにもかかわらず、タイは終戦後に一転して「戦勝国」の陣営へ加わるという、いわば外交的な離れ業を演じ、戦後のアジアでも一定の政治的影響力を保持することに成功した。

それでは、太平洋戦争が始まった時、タイ国内の情勢はどのようなものだったのか。タイ政府はなぜ、開戦直後は日本と行動を共にする道を選び、タイの国民は太平洋戦争の勃発をどう受け止めたのか。タイは「日本の同盟国」であったにもかかわらず、なぜ戦争終結後に「枢軸国」とは見なされず、「戦勝国」の一員となることができたのか。

そして、第二次世界大戦期のタイ軍は、東南アジアで唯一の独立国の国軍として、戦争中いかなる活動に従事していたのだろうか。


注1:フランスが1940年6月にドイツへ屈服したあと、同年7月11日にフランス南部にある温泉保養地ヴィシーで樹立された、ペタンを首班とする新政府のこと。ドイツの同盟国ではないが、「親独的中立」という枢軸寄りの政治的立場をとっていた。

18世紀末のシャム(タイ)は、現在のラオスやカンボジアを含めた広大な支配域を持っていたが、ベトナム、ビルマと対立していた。また、この頃よりヨーロッパ諸国が東南アジアへ進出し始め、19世紀後半より領土の縮小を余儀なくされた。

太平洋戦争の勃発とタイの動向

第一次世界大戦と独立国タイの決断

一九一四年にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した当初、シャム(タイの当時の国名)の国王ワチラーウットは、ドイツと英仏の両陣営から距離を置き、中立の立場で戦局を見守る態度をとった。

しかし、一九一七年四月六日にアメリカが英仏の側(連合国陣営)に立って参戦すると、シャムは「これで連合国の勝利は確実になった」と考え、三か月後の七月二十二日にドイツとオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告を行った。

ドイツの植民地ともオスマン帝国(トルコ)とも接していないシャムが、この戦争に参加すべき安全保障面での動機は皆無だった。

では、なぜシャムは自国の安全と関わりのない第一次大戦への参戦を決意したのか。その理由は、同国が十九世紀から二十世紀初頭にかけて、英仏両国との間で否応なく結ばされた、数々の「不平等条約」にあった。

イギリスがビルマとマラヤに、フランスがインドシナ一帯に、それぞれ植民地を獲得して東南アジアへの進出を果たしたのは、十九世紀のことだった。これにより、シャム王国は東西から英仏両国による圧迫を受けることになったが、イギリスとフランスは利害が正面衝突するのを避けるため、シャムの中心部を流れるチャオプラヤ川の流域を英仏支配地域の「緩衝地帯」とする協定を一八九六年に締結し、紛争を回避する方策をとった。

そして英仏両国は、シャムに対して領土の割譲を要求し、軍事力で劣るシャムはこれを受け入れるしかなかった。その結果、一九〇四年にはメコン川流域のルアンプラバン西部とチャンパサック周辺が仏領ラオスに、一九〇七年には有名なアンコール・ワット遺跡を含むシャム南東部の一帯が仏領のカンボジアに、一九〇九年にはマレー半島のクダー、ペルリス、クランタン、トレンガヌの四州が英領マラヤに、それぞれ併合された。

英仏の東南アジア進出以降にシャムが失った領土の面積は、約四六万平方キロメートルに達したが、シャムの王室はその代償として、独立国としての主権を辛うじて保持することに成功した。しかし、一八五五年のバウリング条約をはじめ、英仏両国と取り交わした条約はいずれもシャムにとって不利な内容であり、王族たちはその改正を行える機会が来るのを静かに待ち続けていた。

つまり、第一次大戦に参戦して「英仏に恩を売る」ことができれば、これらの不平等条約の改正や失地回復の交渉を、有利に進められるのではないかと考えたのである。

こうした思惑に基づき、シャムは翌一九一八年、一二五〇人の義勇兵をヨーロッパ戦線に派遣した。これらの小兵力は、戦局にはほとんど影響を与えなかったものの、シャムは望み通りに、第一次大戦における「戦勝国」の一員となることができた。

シャムの求めた「不平等条約」の改正は、一九二七年までには実現し、同国と英仏両国の関係は第一次大戦の終結後、急速に改善された。この意味においては、シャムの王室が期待した通りの展開と言えたが、このヨーロッパの戦争は彼らが予想もしなかった副産物を、東南アジアの諸地域にもたらす結果となった。

固有の歴史に基づく民族意識と、西欧的な議会制民主主義の導入を求める声が、この戦争と前後して、シャムを含む東南アジア諸地域に住む民衆の間に広がり始めたのである。

1919年、パリで第一次大戦の戦勝パレードに参加するシャム(タイ)軍。先頭の兵士が現在のタイの国旗ともなっている赤・青・白の三色旗を掲げている。