アルデンヌ航空決戦

アルデンヌ航空決戦

知られざるドイツ空軍“乾坤一擲”の大攻勢

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ドイツ軍のアルデンヌ大反攻「ラインの守り」作戦の航空戦として知られる「ボーデンプラッテ」作戦。しかしそれは、作戦命令の一部分にすぎなかった。12月16日の攻勢開始から年末にかけ、ドイツ空軍空前の兵力を投入した一大航空作戦が展開されていたのだ!!

文=古峰文三(歴史群像2014年2月号)

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ドイツ軍に包囲されながらも抵抗をやめないバストーニュは、12月中を通して航空戦の焦点となった。写真はバストーニュへ向かう輸送機を護衛中のアメリカ軍戦闘爆撃機と、それを迎え撃つドイツ軍機との空中戦を注視するアメリカ軍高射砲手たち。


❖名前を持たない航空作戦

一九四四年十二月十六日、西ヨーロッパは低気圧に覆われ、冬季の荒天によってそれまで圧倒的な威力を誇っていた連合軍の航空優勢に陰りが見えた。そのほんのわずかな隙を突き、ドイツ陸軍最後の装甲兵力が西部戦線で一大反撃を試みた。

作戦目標はアントワープ。アルデンヌ高原を突破してミューズ河を渡り、かつて一九四〇年にフランス戦役で勝利したように、連合軍右翼のイギリス軍部隊を大きく包囲して撃滅する一大攻勢、「ラインの守り」作戦である。

同作戦に呼応して、かねてからの計画通り、作戦開始直前に荒天を縫った夜間戦闘機隊による誘導で、ドイツ空軍戦闘機隊の大部隊が前線に集結した。前進する地上軍を掩護・支援するべく、開戦以来各戦線で名を馳せた名門戦闘機隊のほぼすべてが投入されたのである。

このアルデンヌ高原を突破してアントワープに向かうという壮大な反撃構想は「アルデンヌの戦い」または「バルジの戦い」として有名だが、一般的な印象として、悪天候を衝いて実施されたこの戦いは、天候回復とともに連合軍の航空攻撃が再開されたことによって、ドイツ軍の進撃は頓挫したと受け取られている。

その戦いには空軍の影があまりにも薄い。わずかに一月一日という戦いのピークをはずれた時期に実施され、大損害を出して終わった連合軍飛行場への奇襲攻撃「ボーデンプラッテ」作戦が目立つのみだ。

ドイツ地上軍の進路を阻む南の要衝・バストーニュの包囲が破られてから数日後という、いわば気の抜けた時期になって大規模な航空作戦が行われたことは、なんとも愚かに感じられるうえ、戦闘機総監アドルフ・ガーランドが戦後の回想録に書き残した「この無駄な作戦のために連合軍の戦略爆撃に対抗する集中反撃計画が中止された」とする辛辣な批判が、作戦の愚かさをいっそう強調している。

そしてドイツ空軍戦闘機隊は、無意味な作戦で致命的に消耗して最後の希望まで失ったとの認識は、戦史愛好者の間では半ば定説となっている。

だが、「ラインの守り」作戦のあと、ドイツ空軍戦闘機隊が大きく消耗して組織的な反撃能力が失われたことは事実であっても、「ボーデンプラッテ」作戦のただ一日の戦闘、三〇〇機程度の損害で壊滅してしまうほど、ドイツ空軍戦闘機隊は小さな組織ではなかったはずである。

ましてアルデンヌ高原で激戦が繰り広げられていた一九四四年十二月後半の二週間もの間、ドイツ空軍が地上部隊の必死の戦闘をひたすら静観していたとしたら、それは不自然極まりないことではないだろうか。

かつて一九四〇年五月にフランスに侵攻したドイツ軍の「電撃戦」は、濃密な航空支援を伴っていた。進撃速度が遅く、戦車部隊に追従できない上にその兵力も小さかったドイツ軍野戦砲兵の戦力を補って、野砲の代わりに火力支援と阻止攻撃の役割を担ったのはほかならぬ空軍だった。

そしてアルデンヌ高原を抜ける、か細い道路上にひしめくドイツ軍後続部隊を狙う連合軍爆撃隊を撃破し、上空掩護を行ったのもドイツ空軍だった。また、フランスの運命を決したミューズ渡河に続くセダンの突破も、空軍の急降下爆撃機あってこその成功だったといえよう。

第一次世界大戦末期、一九一八年春の「カイザー戦」から、第二次世界大戦での東部戦線最後の大攻勢となったクルスク戦まで、ドイツ軍の大規模攻勢は、必ず航空兵力と密接に協同する空陸一体の機動戦の形をとってきた。それがドイツ軍の創り上げた機動突破作戦のドクトリン(教義)だからである。

つまり、ドイツ軍が地上で大攻勢をとる場合には、必ずそれに見合った大規模な航空支援が伴うはずなのだ。

このような観点から、ドイツ軍最後の大攻勢となった「ラインの守り」作戦でのドイツ空軍の活動を追うと、意外にもドイツ側のみならず、迎え撃つ連合軍側にとっても最大規模となった航空作戦の姿が浮かび上がってくる。

実は、「ラインの守り」作戦は、陸上戦闘だけでなく、空の戦いにおける焦点も地上軍と同じく十二月十六日の攻勢開始から十二月三十一日までの戦いにあったのである。

もっとも、ドイツ空軍が一九四五年一月一日、「ボーデンプラッテ」作戦のたった一日で壊滅したのではなく、アルデンヌ高原を進撃する装甲部隊の上空で、空軍誕生以来最大級の激戦を繰り広げた末に「壊滅」したことを納得するには、説明が必要かもしれない。

なぜなら、ドイツ空軍の運命を決した史上最大の航空作戦には「名前すら無い」からである。

ヒトラーの構想した「ラインの守り」作戦は、連合軍の補給港たるアントワープを奪回し、併せて戦線北翼の連合軍を包囲撃破することで、西部戦線での条件付き講和も見据えた大攻勢であった。その広範な地上部隊支援のため、2000機の航空戦力が準備された。
アドルフ・ガーランド(1912~96)。スペイン内戦を皮切りに大戦全期間で活躍したドイツ空軍戦闘機エース。1941年には戦闘機総監に任命されるが、のちにMe262の戦闘機としての実用化などを巡りゲーリングと対立し解任された。貴重な証言を遺すが、誤解に基づくものもある。