かつては旅順攻略の立役者として賞賛の的となり、近年はその威力に疑問が持たれる巨砲。果たしてその能力はいかばかりのものだったのか。新史料をもとに、その実像を探る
文=長南政義(歴史群像2014年2月号)
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砲撃準備が整った二十八サンチ榴弾砲。砲車長が最後の点検を行う。砲尾や揚弾機、運弾車に載せられた砲弾など、同砲のディテールが明瞭にわかる写真だ。
伝説に彩られた大砲
二十八サンチ榴弾砲※注1は、日露戦争において、海軍の戦艦『三笠』と並び称される陸軍を象徴する兵器である。しかし、日露戦争における二十八サンチ榴弾砲に関しては『坂の上の雲』などの小説で描かれたイメージが先行しており、その実態は伝説と訛伝に彩られている部分が多い。
たとえば、日露戦史に関するある最近の研究では、二十八サンチ榴弾砲の旅順攻囲戦への投入の発案者を有坂成章や山口勝としている。また、同砲の旅順投入について、長岡外史の役割が大きかったとする説もいまだ根強い。しかし、後述するように、二十八サンチ榴弾砲の旅順攻囲戦への投入に際しリーダーシップを発揮したのは、陸軍大臣・寺内正毅であるというのが真相である。
近年、別宮暖朗氏に代表されるように、二十八サンチ榴弾砲が旅順攻囲戦で果たした役割について、ロシア旅順艦隊が自沈したことを例に挙げて過小評価する向きがある。旅順艦隊が自沈したのは確かだ。しかし、この説は、新奇をてらうあまり二十八サンチ榴弾砲の役割を過小評価しすぎる嫌いがある。また、要塞に対する効果についても、最近の研究では「高い威力を有してはいたが、それでも堡塁、特に永久堡塁を破壊することはできなかった」と、二十八サンチ榴弾砲の威力に懐疑的な見方を示しているが、これも正しくはない(別宮暖朗『旅順攻防戦の真実』、瀬戸利春『日露激突 奉天大会戦』)。
さらに、攻城用兵器として投入された二十八サンチ榴弾砲が、野戦(奉天会戦)で使用されるようになった経緯およびその運用の実情については、先行研究が存在しない。
本稿では以上の三点を中心に、二十八サンチ榴弾砲の開発の経緯および日露戦争における同砲の運用について、信頼性の高い史料に基づき考察してみたい。
注1:本砲の制式名称は、二十八珊米(サンチメートル)榴弾砲と単位をフランス語読みしたが、大正13年(1924)の度量衡法施行令改正以後は、センチと英語読みし、「糎」の文字を充てた。引用する史料によって表記が異なるので、本稿では「二十八サンチ」に統一した。