元服前にわずか15歳で初陣を飾って以降、数多の合戦を戦い続けた豊久。精強島津軍有数の武弁の知られざる素顔と、戦いに明け暮くれた30年の生涯をたどる。
文=桐野作人(歴史群像2019年8月号)
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戸次川古戦場(撮影=筆者)。天正14年(1586)、豊久の父家久は豊後大友氏を攻撃。秀吉の命令で大友氏を援軍していた四国勢を撃破し、大友氏の本拠地府内を占領するという大勝をあげた。豊久も出陣していたが、その動静は詳らかでない。
豊久美男伝説
近年、島津豊久(一五七〇~一六〇〇)がにわかに注目されている。劇画※注1やゲームがその媒介となったともいえよう。
薩摩島津家の分家、佐土原島津家の若き当主となり、三十一歳という短い生涯ながら、島原沖田畷、豊後戸次川、文禄慶長の役、庄内の乱、そして関ヶ原合戦と、わが国戦史上、重要で大きな戦争を幾度も経験している。その短い生涯の多くは戦場にあった。
豊久とはどのような人物であったか、それを語るにあたり、意外かもしれないが、ビジュアル面に注目してみよう。豊久の肖像画は残っていないが、江戸時代の軍記物などの記述が共通しているのは「美男」だったという点である。
倭文麻環「世に類ひなき容顔美麗」
島原軍記「其頃無双之美男」
薩藩旧伝集補遺「其頃美少人」
後世の記録だから全面的に信用するのは控えなければいけないが、揃って同趣旨のことを述べているのには留意してもよい。
また『武功雑記』は「逸りたる大将」の伯父義弘と比較して、豊久を「静たる大将」としている。それと関わるのか、前出の『島原軍記』は「物言少し吃られけるも、却てしほらしく聞へけり」ともあり、豊久は軽い吃音があったためか、言葉少なだったとする。それがかえって上品で慎み深く見えたという。
慎み深くて美男──現代人に注目される要素がありそうだ。

注1:劇画やゲーム=劇画の『ドリフターズ』(平野耕太・著)やアクションゲーム『戦国無双』(コーエー)などでも人気が高い。
豊久の家族関係
まず豊久の個人情報を押さえておきたい。
豊久は元亀元年(一五七〇)六月十一日、薩摩国串木野城主だった父家久の長男として誕生した(『本城家家譜』)。幼名を豊寿丸という。生母は島津本家の重臣で姻戚である樺山玄佐(実名善久)の娘である。彼女の母は本家中興の祖である日新斎忠良の娘御隅である。豊久は日新斎の外曾孫にあたっていた。
豊久の父母以外の家族関係を『旧記雑録諸氏系譜三』などからみると、豊久には妻がいた。父家久の従兄弟にあたる島津忠長(尚久の嫡男)の一女で二歳下である(婚姻時期は不明)。残念ながら豊久夫妻には実子は誕生していない。
ちなみに、二人の婚姻は因果があったのではないかと思われる。天正十三年(一五八五)、家久と忠長はお互いの領民同士の私闘がきっかけで確執した(『上井覚兼日記』下)。太守義久が横暴な家久に蟄居を命じたくらいだった。その後、両者は和解するが、その証が豊久たちの縁組みだったのかもしれない。
豊久には姉二人と妹一人がいた。四歳上の長姉は大隅半島の国衆、禰寝重張の夫人となったが、離縁したようである。島津氏が豊臣政権に服属後、人質として在京していた。三歳上の次姉は島津分家の佐多久慶久に嫁いでいる。妹は生没年不明だが、最初、島津分家の豊州家信久に嫁いだが、のち離縁し、肥後求麻の相良頼安に再嫁している。
弟も一人いて、忠直(忠仍とも)といい、四歳下だった。わずか四歳のとき、北薩の国衆東郷重尚の養子となったが、文禄の役に出陣したとき、伯父の島津義弘の命で東郷家を離れて実家に戻った。
忠直は豊久の討死から四年後の慶長九年(一六〇四)、太守義久の命で豊久の後嗣に指名されたが、奇病に冒され「狂心」したために後嗣を取り消されている。

小大名ながら侍従任官
天正六年(一五七八)六月、島津氏は日向伊東氏を追放して三州統一を成し遂げた。太守の島津義久は末弟家久を日向守護代として佐土原に転封した。それから六年後の同十二年(一五八四)四月十四日、十五歳になった豊寿丸は元服して又七郎と称した。もっとも、豊久はこの直前に島原沖田畷の合戦で初陣を飾っているから、そのときにはまだ元服していなかったことになる。
豊久の名乗りと官位についても触れておきたい。このことは豊久の地位の変化を考えるうえでも重要である。
文禄慶長の役があった慶長三年(一五九八)十一月まで、豊久は又七郎と名乗っている。たとえば、豊臣秀吉からの朱印状の宛先はすべて「嶋津又七郎とのへ」となっている。これが〇〇守のような国司名、中央官庁の名乗りである京官(修理大夫や中務大輔など)でないことから、豊久はその時期まで無位無官だったことがわかる。
ところが、翌四年八月二十日、秀吉亡きあとの豊臣政権の執政である徳川家康が、豊久の庄内の乱(後述)での奮戦を賞した書状では、宛先が「嶋津中務大輔殿」に変わっている(『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』七七六号、以後、同書は『後編二』『後編三』と表記する)。中務大輔は京官であるとともに、かつて父家久が名乗っていた官名でもある。
『本藩人物誌』には、同年二月、豊久は朝鮮での戦功により、中務大輔ならびに侍従に任ぜられたとある。
侍従は豊臣政権の武家官位制においては、公家成(殿上人の資格を有する)の家格である。位階も四位である可能性が高く、地下※注2である五位諸大夫と画然と区別される。西国で侍従の官職をもつ大名は土佐の長宗我部元親や筑後柳川の立花宗茂らがいる。つまり、国持大名や一〇万石以上の大名と同格になる。わずか三万石足らずの小大名にすぎない豊久であったが、家格上はかなり厚遇されていたことがわかる。それは朝鮮での戦功が豊臣政権に評価されたことを意味するのだろう。
豊久の領知高についても触れておきたい。父家久死後の天正十六年(一五八八)、豊久は秀吉から佐土原を中心に九七九町を宛行われている(『後編二』四九八・四九九号)。当時の島津家では知行地を石高ではなく、町歩ちょうぶといった土地面積単位で表示していた。一町歩あたり約三〇石に換算されていたから、豊久の領知高はおよそ二万九〇〇〇石余だったことになる。
その後、文禄三年(一五九四)十月四日、秀吉から石高換算で二万八六四六石を与えられている(「永吉島津家文書」五三号)。その内訳は佐土原の本知一万四五七三石余と、私検地※注3の出米一万四〇七二石余を合わせたものである。
注2:地下=家格の低い家の出身者を指す。
注3:私検地の出米=豊久が独自に実施した検地により計上された石高。