ガ島戦の戦訓から、太平洋戦争末期に日本海軍が建造した「一等輸送艦」。その活躍のひとつに、沖縄戦のさなか、隣接する奄美大島に物資を運んだ「大島輸送隊」の決死の輸送作戦がある。指揮官を務めた丹羽大尉の証言等を元に描く
文=手塚正己(歴史群像2018年8月号)
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昭和20年2月8日、呉軍港で竣工直後に撮影された第十七号一等輸送艦の乗組員。
丹羽艦長と一等輸送艦
日本海軍はガダルカナル島争奪戦の戦訓から、敵制空権下を突破して第一線へ強行補給できる高速で、しかも大量の物資が搭載可能な艦艇の必要性を痛感した。そこで設計建造されたのが、輸送艦という新たな艦種だった。
一等輸送艦は米海軍のAPD(High Speed Transports)に相当する高速輸送艦で、基準排水量一五〇〇トン、速力二二ノット(時速約四〇キロ)であった。
船体の形状は独特で、艦尾は海面にかけて緩やかな斜面になっている。走行中に大・中発や特殊潜航艇、人間魚雷「回天」などを滑走させて、進水、発進できるようになっている。また推進器は二軸のところを一軸にして、空いた部分に船倉二室を増設し、輸送の効率化を図った。また砲熕兵装は、後期に建造された艦には相当数の機銃が装備されている。
輸送艦には一等輸送艦より小型の二等輸送艦(基準排水量八七〇トン)がある。米海軍のLST(戦車揚陸艦)か、日本の超大型大発と思えばよい。砂浜に擱座し、艦首の扉から戦車や車両、兵員の揚陸を目的とした艦である。

太平洋戦争後期の昭和十九年(一九四四)五月十日に、三菱重工業横浜造船所で「第一号一等輸送艦」が誕生した。その後、終戦を迎えるまでに二一隻が建造(未完成一隻)されたが、このうち一六隻を喪失している。
昭和二十年一月二十八日、呉軍港に帰港した駆逐艦「濱風」を退艦した丹羽正行大尉(海兵六十八期)は、呉海軍工廠で艤装中の「第十七号一等輸送艦」「第十八号一等輸送艦」に艤装委員長として着任した。
二月八日、「第十七号一等輸送艦」が竣工引き渡しされ、艤装員長の丹羽は、大尉の階級でありながら艦長を命ぜられた。理由は彼の多彩な戦歴によるところが大きい。
昭和十六年十二月に空母「翔鶴」(砲術士・高角砲群指揮官)で「ハワイ作戦」、昭和十七年三月に任海軍中尉、四月に「セイロン沖海戦」、五月の「珊瑚海海戦」で「翔鶴」中破、七月に第五分隊長、八月に「第二次ソロモン海戦」、十月の「南太平洋海戦」で「翔鶴」大破、昭和十八年九月に駆逐艦「濱風」乗組(砲術長兼先任将校)、十一月に任大尉、以降各種護衛作戦と救難作業を続け、昭和十九年六月に「マリアナ沖海戦」、十月に「シブヤン海海戦」と「武藏」乗員救助、十一月に「信濃」護衛と乗員救助、昭和二十年一月に「馬公の対空戦闘」といった具合で、「翔鶴」が大破して内地に帰還してからの半年を除いて、戦争中のほとんどを実施部隊で過ごしたという歴戦の士である。
この時、丹羽は二十六歳の若者であったが、頬から顎にかけて濃い髭が長く覆っている。いわゆる鍾馗髭で、これが実年齢よりも十歳ほど老けて見えた。
竣工後の「第十七号一等輸送艦」は、二月二十八日に公試運転と整備訓練を慌ただしく終了すると、三月二日に呉軍港を出港、同日倉橋島の特殊潜航艇基地(大浦突撃隊)に入港した。輸送艦の艦尾レール上に、特殊潜航艇「甲標的丁型」二隻を搭載、搭乗員と整備員を乗せて、佐世保軍港に回航した。
その後、佐世保鎮守府(以後、佐鎮と呼称)司令長官杉山六蔵中将(海兵三十八期)の指揮下に入り、弾薬、地雷、糧食など六〇〇トンを満載し、沖縄に向かった。
三月八日、「第十七号一等輸送艦」は沖縄本島本部半島東にある運天湾沖で、「甲標的丁型」二隻を降ろすと、輸送艦を那覇港の岸壁に横付けした。昼夜二日間をかけて揚陸作業を完了した丹羽艦長は、沖縄方面根拠地隊司令官の大田實少将(海兵四十一期)と挨拶を交わした。彼はその時、独断で本艦の糧食を二日分だけ残して、残り全部を根拠地隊に提供した。非常に喜んだ大田司令官は、空になった船艙いっぱいに黒砂糖が詰まった南京袋を、佐鎮への託送品として積み込んでくれた。
十日、丹羽艦長は大田司令官と握手で別れると、那覇港を後にした。これが沖縄への最後の物資輸送になった。
十二日、「第十七号一等輸送艦」は佐世保に安着すると、丹羽艦長は佐鎮司令部に出向いて、「沖縄輸送作戦」の経緯を報告した。作戦の成功に気をよくした司令部は、再度の「沖縄輸送作戦」の実施を命じた。
「第十七号」と同じドックで建造された「第十八号一等輸送艦」は、二月十二日に竣工し、輸送艦長には大槻勝大尉(海兵六十七期)が補された。
三月十三日、「第十八号」は山口県の光基地で第一回天隊の河合不死男隊長(海兵七十二期・中尉)以下一二七名の隊員と「回天」八基を搭載、佐世保に回航し資材を積み込むと、十六日に沖縄を目指して出撃した。
十八日深夜、「第十八号」は那覇の北西五〇浬(約九〇キロ)の地点で、米潜水艦「スプリンガー」の雷撃を受けて沈没し、乗員二二七名と回天隊員の総員が戦死した。
大島輸送隊出撃
三月二十五日、那覇市から西に四〇キロほどしか離れていない慶良間諸島の座間味島など数島に、米軍の先遣部隊が上陸を開始した。
二十七日になって米軍の沖縄本島進攻が近いと予測した佐鎮司令部は、「第二回沖縄輸送作戦」を取り止めて、「佐世保 大島間ノ緊急作戦輸送ヲ実施スル」と各関係機関に通達した。これによって、奄美大島への特別輸送隊が編成され、「第十七号一等輸送艦」「第百四十五号二等輸送艦」「第百四十六号二等輸送艦」「海防艦第百八十六号」「駆潜艇第十七号」「駆潜艇第四十九号」の六隻をもって、「大島輸送隊」と呼称することになった。
この艦艇の中で一番大きい「一等輸送艦」が基準排水量一五〇〇トンで、二〇〇〇トン前後ある駆逐艦よりも一回り以上小さい。ましてや上陸用舟艇型の二等輸送艦二隻が八七〇トン、「第百八十六号海防艦」が七四〇トン、二隻の駆潜艇が四三八トンと四二〇トンでしかない。さらに兵装は貧弱で、各艦艇に高角砲一基と機銃が数基ずつ備えられているだけで、対空戦闘ともなればまことに頼りない。
輸送隊指揮官には当初、佐世保港務部長で予備役から再度招集された某大佐が充てられる予定だったが、体調不良が理由で外された。その代わりとして、先任艦長の丹羽正行が「大島輸送隊指揮官」として発令された。大尉に進級してから一年半にも満たない者が、「一等輸送艦」の艦長を拝命しただけでも異例なのに、小なりとはいえ六隻の艦艇を率いる指揮官に任命されたのである。本来なら大佐がやる司令官職を一大尉に任されたのは、おそらく帝国海軍初の人事ではなかろうか。
