日本海軍潜水艦の四〇年に及ぶ歴史の中で小さなものも含めて300件以上もの事故が起こっている。なぜくり返し事故が発生するのか?11例の重大事故を検証し、その原因を探る。
文=勝目純也(歴史群像2020年6月号)
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戦後の昭和28年(1953)、海底から引き揚げられた伊第三十三潜。戦時中、同艦は二度の乗員の死亡事故を起こし、引き揚げられた後の解体作業中にも、有毒ガスによって作業員3名が死亡している。
海軍に進むと、「飛行機と潜水艦には乗らんでくれ」と親に懇願されて困ったと元潜水艦乗りから聞いたことがある。飛行機と潜水艦は戦死率だけではなく事故も多く、飛行機においては厚木基地で「烏の泣かない日はあっても、事故のない日はない」と言われていたという。
潜水艦も同様で、日本海軍の四〇年の運用史の中で沈没事故、水中衝突、水上衝突、浸水、転覆、火災、爆発、船体損傷等の事故は合計三〇六件。そのうち沈没という重大な事故は一四件で、殉職者(戦地での事故の場合は戦死扱い)は実に七九五名にも及び、その他の人員損傷事故での死者一五名と合わせて合計八一〇名もの殉職・事故死を出している。なぜここまでの死者を出した潜水艦の事故が起こってしまったのだろうか。沈没事故を中心に解明していきたいと思う。
太平洋戦争以前の事故
case.1 | ガソリン半潜航中に通風筒より浸水して沈没
第六潜水艇(ホランド型改)。明治四十三年(一九一〇)四月十五日、広島県新湊沖
山口県岩国沖で日本海軍の中で最も小さな潜水艇(ホランド型改)が訓練中に事故により沈没し、艇長以下乗員一四名全員が殉職した。世に言う「第六潜水艇遭難」である。乗員は最後まで浮上を試みたが果たせず、全員持ち場を離れることなく倒れ、艇長であった佐久間勉大尉は事故の経緯や原因を克明かつ簡潔に記した遺書を遺した。その沈着冷静な行動と責任感は海軍部内においてはもとより、当時の国民に深い感銘を与え、広く海外でも佐久間艇長の精神を学ぼうとする海軍軍人が多数生まれた。なぜそのような事故が発生したのかを詳しく見ていこう。
遭難の遠因
明治四十三年四月十一日、第一潜水艇隊六艇は潜水母艦『豊橋』、母艇『硯海丸』と共に呉軍港を出港。瀬戸内海西部に出動して、別府方面まで巡航することになった。しかし第六潜水艇は、最も小さな潜水艇であったため耐波力に問題があり、その他の潜水艇と同様の訓練は困難と判断され、呉に残留を命ぜられた。
佐久間艇長は、仕方なく監視艇である『歴山丸』を伴って岩国の新湊沖における短期間の単独訓練を願い出て、許可された。遭難の前日である四月十四日、第六潜水艇は宮島水道を経て岩国の新湊沖まで約二時間半にわたる潜航訓練を実施している。これは当時の潜水艇としては長距離の潜航訓練である。
四月十五日午前九時三十八分、『歴山丸』と離れ、十時十分からガソリン半潜航訓練のため潜航を試みた。ガソリン半潜航とは、当時の潜水艇が潜航中の速力が遅く行動の制約が大きかったため、潜航状態で通風筒を海面より露頂し、ガソリン機関を動かしたまま航行する方法で、現在のスノーケル航走に近いものと考えて良い。その当時、ガソリン半潜航訓練は頻繁に行われていた訓練なのか、あるいは上級者の命令による訓練だったのかは不明である。
以前より佐久間艇長は潜航状態で高速が発揮できるガソリン半潜航は有効であると判断しており、同潜水艇へのベンチレーター(通風換気装置)の新規増設を要求していたが、実現されることはなかった。理由は第六潜水艇の実用性能に疑問があり、調査・研究用の予備艇として活用されることが検討段階に入っており、新たな設備投資には積極的ではなかったからだ。このためガソリン半潜航の研究の必要性は認めつつも、安全を考慮して第一潜水艇隊では禁止していたという説がある。
第六潜水艇は、危険でまだ明確な訓練規定がないガソリン半潜航訓練を単独で実施したことが、事故の遠因となっている。
第六潜水艇遭難
「合戦準備」の号令をもって潜航準備にとりかかった第六潜水艇は、艇長が司令塔を降りてハッチを閉め、キングストン弁※注1を開き、メインタンク※注2に注水して潜航を開始した。当初浮力の調整に戸惑い、十時四十五分に潜航を開始したが、何らかの錯誤により過度に潜入したため、開放状態にあった通風筒から海水が浸入した。
ただちに、通風筒の閉鎖用バルブであるスルイスバルブを閉じようとしたがチェーンが外れた(遺書では切れたとある)。このため手動による閉鎖を試みたが、大量の海水が浸水して艇の後方に流れ込んだため、後方に約二五度傾いて沈降し、深度一七メートルの海底に約一三度傾斜して着底した。
いわゆる事故調査委員会が海軍部内で組織され調査が進められたが、なぜ過度の潜航をしてしまったのかについては、潜航深度一〇フィート(約三メートル)の命令が通風筒の位置を上回る深度であったと報告されている。しかし艇の性能を熟知しているはずの艇長が危険なガソリン潜航をする際、はたして通風筒がどれだけ潜航したら危険深度になるかを把握していないということは考えにくい。艇長が誤ったのか、艇員が聞き間違えたのか、あるいは記録のミスなのか、艇長以下乗員が全員殉職してしまった以上、永遠の謎である。
浸水した海水は配電盤に至り動力を喪失させたため、艇内は電燈が消えて真っ暗闇となった。手動ポンプによる排水作業も暗闇のため困難を極め、配電盤が冠水したことによる電纜※注3のゴムが焼けて有毒ガスが発生しはじめ艇員を苦しめた。佐久間艇長は直ちにメインタンクの排水を試みたが、その浮力より浸水した海水の量が多かったので浮上できなかった。仕方なく、手動ポンプを使い全員代わる代わる交代で排水に当たった。
しかし一向に浮力が回復する様子がないことから、空気圧によってガソリンを艇外に排出しようと試みた。しかし暗い中での作業のため、誤ってパイプが破損し、艇内に揮発したガソリンが漏れだして悪臭に悩まされることとなった。暗闇の中での作業のため空気量を図るメーターが読み取れず、過大な空気を送ったことからガソリンバイプが破損したのである。さらにメインタンクの排水に使用した高圧空気が弁操作の誤りから艇内に充満、艇内は異常な高気圧に陥ることとなった。
このような危機的状況に潜水艇が陥ったのなら、艇内から脱出するという手段を採ることはできなかったのか。その場合、沈没の水深が約一七メートルで、キールから昇降筒ハッチ(艦橋ハッチ)までが約四メートルとすれば、深度一三メートルからの自由脱出になる。しかし、基本的に艇の内外が均圧でなければハッチを開けることはできない。
通常、水中の物体にかかる圧力は「海面にかかる一気圧+水圧」であり、水深一〇メートルが一気圧に相当するので、第六潜水艇のケースでは、水深一三メートルなので艇内を二・三気圧以上にすればハッチを空けることができる計算となる。メインタンクの排水に使った高圧空気が艇内にあり、これが二・三気圧に達すればハッチを開くことは可能であり、また非常手段として、意図的に海水を侵入させて二・三気圧にすれば、ハッチは開けられたと思われる。
しかし当時の日本海軍潜水艇の精神として、命令を得ずに潜水艇を棄てて艇外に脱出することは考えられなかったのではないだろうか。艇員は全員、指示に従い、各々の持場で全力を尽くして最後まで復旧に努め、艇から脱出することなく高圧下のガソリン中毒により、沈没後約二時間で佐久間艇長以下一四名は殉職。文字通り艇と運命を共にしたのである。
注1:取水を制御する弁。弁を開くことで艦内に海水を取り込む。「艦艇が自沈するための弁」というのは間違い。
注2:潜水艦の浮上・潜航を担うタンクのこと。艦が水面上にいるときに空気を抜いて海水を入れると潜航し、潜航中に空気を入れて排水すると浮上する。艦内の圧縮空気タンクからメインタンクに空気を送り込むこの操作を「メインタンク・ブロー」と呼ぶ。
注3:絶縁体で覆われた電線のこと。
