陸軍総司令官の身に降りかかった、ある嫌疑──ドイツ陸軍全体を震撼させたこの事件はヒトラーと陸軍の関係に大きな影響を与えることとなった
文=守屋 純(歴史群像2019年12月号)
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1935年1月、ヒトラーに新年の挨拶を述べるブロンベルク軍務相と三軍の総司令官(右からレーダー海軍総司令官、フリッチュ陸軍総司令官、ゲーリング空軍総司令官)。
軍人フリッチュ
プロイセン王国以来のドイツ陸軍の歴史の中で、上級大将で男爵のヴェルナー・フォン・フリッチュ辞任をめぐる一件、すなわち「フリッチュ危機」ほど、奇怪な謀略につつまれたものはない。そこに見られるのは、伝統ある貴族出身の高級軍人と、ドイツ社会の底辺にうごめく下品な恐喝常習者との対決であり、同時に目的のためには手段を選ばぬナチ党幹部たちの陰険さである。そして、ヒトラー独裁体制下でのドイツの政府・軍部・警察・SS(親衛隊)の持つ、それぞれの特性を端的に表した出来事ともいえる。
ヴェルナー・フォン・フリッチュは一八八〇年八月四日、デュッセルドルフ近郊のベンラートで、教師の息子として生まれた。父親は非常に厳格な人物であったと言われ、その厳しい躾が終生フリッチュに影響した。彼は軍人の道を志願し、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業後、砲兵士官に任官した。そして二十七歳の時、少尉ながら陸軍大学校に進み、戦術と戦史に優れた成績を残した。
第一次世界大戦ではフリッチュは第一兵站総監ルーデンドルフの懐刀といわれたマックス・バウアーの副官として、第4軍(西部戦線)、第47予備師団、第1近衛師団、第6予備軍団の参謀を歴任。一九一七年には手榴弾の破片によって頭部を負傷している。終戦時はバルト海方面でリュディガー・フォン・デア・ゴルツの参謀として、東欧の新独立国軍および連合国休戦監視団との折衝にあたる。
この時のフリッチュの人となりについて、彼と会ったフランス軍の休戦監視団の一員ニーセル将軍は次のような感想をもらしている。
「フリッチュ少佐は若いが、不遜で、とてつもない自信家である。……彼は、世間の人が普通に感じるプロイセン参謀将校のあらゆる長所と性格的欠点を示している」
後述するように、このフランス軍人の指摘はフリッチュに襲い掛かる悲劇を予言していたと言えるかもしれない。
大戦での敗北とヴェルサイユ条約締結により、ドイツは大幅な兵力削減を強要され、人員整理と人材の淘汰を余儀なくされた。ワイマール共和国軍の中で、フリッチュは軍の有力者ハンス・フォン・ゼークトの信任が大きかったが、ゼークトの反ポーランド姿勢とは一定の距離を置いた。それは、赤色ロシアの脅威に対抗する必要上、ポーランドとの友好は不可欠と考えたからである。
フリッチュのワイマール共和国軍での軍歴は、最初は国軍省勤務、ついで一九二二年から砲兵大隊長、一九二六年から二八年まで第2砲兵連隊長、三〇年まで第1騎兵師団長(フランクフルト・アン・デア・オーデル駐屯)。そして一九三〇年から第3軍管区司令官(ベルリン駐屯)であった。
一九三三年一月三十日のヒトラー政権成立後もフリッチュの昇進は続き、一九三四年初頭をもって退任するハンマーシュタイン=エクォルドの後任として国軍統帥部長官となり、さらに一九三五年三月十六日の「再軍備宣言」によって陸軍総司令官となった。
実は統帥部長官就任に際し、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは自分の腹心であるヴァルター・フォン・ライへナウを希望したが、大統領ヒンデンブルクの強い希望でフリッチュの就任が決まったという経緯がある。
いずれにせよ、こうしてフリッチュは新たに発足したヒトラー政権下でも要職についたのである。


強請屋シュミット
その一年数か月前の一九三三年十一月某日の夜、当時三十一歳の常習的強請屋オットー・シュミットはベルリン郊外のヴァンゼー駅のロビーをぶらついていた。目的は、同性愛行為をネタにしての強請のチャンスをみつけることである。そこへ一人の平服の紳士が来て駅の公衆便所に行き、すぐにそこから出てきた。服装は黒の帽子に茶色の毛皮えりのついたコートを着て、白のスカーフをし、モノケル(単眼鏡)をしていた。顔の左側に傷跡があり、タバコを始終くゆらせていた。シュミットはこの紳士を一見して同性愛者だと直感し、後をつけた。
そこへシュミットの知り合いの男娼マルティン・ヴァインガルトナー(仲間内では「バイエルン・ゼップル(バイエルン・ジョー。ゼップルは英語でジョーの意味)」と呼ばれていた)がやってきて、男子トイレに行った。毛皮コートの紳士は男娼のあとを追い、すぐに二人で出てきた。そして二人は駅構内の空き地に向かった。男娼が空き地の角に立ち、自分でズボンをおろして、紳士がその前でかがんで男娼の勃起した性器を口にくわえているのをシュミットは目撃した。
二人の行為の一部始終を見届けたあと、シュミットは紳士のあとをつけ、それから紳士に声をかけ、「やあ、味はどうだった」と言って、自分はその筋の者だ、とほのめかした。それから、クルーガー刑事だと名乗り、紳士に口止め料を要求した。その時、紳士の身分証の片側にはっきりと、「フォン・フリッチュ」の名が見えた。
それから紳士はシュミットを同行して、リヒターフェルデのフェルディナント街二十一番地の家に行き、そこで金を用意して、リヒターフェルデ東駅に行く途中、シュミットに手付として五〇〇RM(ライヒスマルク)を渡した。その翌朝、シュミットは再びその紳士と東駅で会い、紳士がドレスデン銀行から下ろした口止め料一〇〇〇RMを受け取った。さらに一九三四年一月十日、リヒターフェルデ東駅でシュミットは強請屋仲間のハイター(仇名はブッカー)を帯同して紳士からさらに一〇〇〇RMを受け取った。それはコメルツ銀行の口座から下ろしたものだった──。
以上の記述は、のちにシュミットが恐喝容疑で逮捕された時、刑事警察および予審尋問、さらにゲシュタポに対してシュミットが行った自白の内容から再構成したものである。