悪魔か? 英雄か? 傭兵隊長ホークウッドの生涯

悪魔か? 英雄か? 傭兵隊長ホークウッドの生涯

動乱の中世イタリアを戦慄させた男

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中世後期のイタリアで暴れ回った外国人傭兵隊長がいた。チェゼーナの街の虐殺事件で歴史に恐怖を刻んだ男、その死をフィレンツェから国葬をもって報われた男、彼は果たしてどんな生涯を送ったのだろうか。

文=荒川佳夫(歴史群像2019年12月号)

【タイトルバック画像】

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に収められた、パオロ・ウッチェロによるジョン・ホークウッドの肖像画。この傭兵隊長に敬意を払って、大理石像を立てる計画が生前からあったが、死後、遺体のイングランド送還に伴い立ち消えとなり、約40年後に絵画で復活した。今日に、ホークウッドの面影を伝えるほぼ唯一の作品である。


十四世紀のイタリアは、かつて同地の多くを支配したフランク王国カロリング朝が九世紀に断絶して以来、統一国家が現れず、長い分裂の時代を迎えていた。

北イタリアでは地中海貿易で富を築いたヴェネツィアやジェノヴァ、貿易に加えて製造業や金融業でも富を成したフィレンツェなど、多くの都市が繁栄し、周囲の農村地帯を支配下に置いてコムーネと呼ばれる一種の都市国家を形成して、覇権を争っていた。

イタリアの中部には八世紀にフランク王が寄進したローマ教皇領が広がっていたが、一三〇九年以来ローマ教皇庁はフランス王の強い意向で南フランスのアヴィニョンに移されており(アヴィニョン捕囚)、教皇の不在が続いていた。その間、教皇の支配が弱まった同地では管理を任されていた代官達が僭主※注1となって独立国家を群立させ、ローマなど歴史ある都市が荒廃するほどの混乱が広がっていた。

その争いの絶えない当時のイタリアで暴れ回ったのが、各コムーネや僭主に雇われた傭兵団であった。本稿の主人公、ジョン・ホークウッドも、そうした傭兵団を率いた隊長の一人である。だが、彼は外国人であること、戦闘や都市への脅しでみせた才能、毀誉褒貶の激しさによって、その名を歴史に留めている。彼は「勇敢で屈強な戦士」と称えられる一方で「狐のように狡猾で残忍」との非難も受け、金儲けに邁進した人物でもあった。嘘か実か次のような逸話も残る。修道士が「あなたに平穏が訪れんことを」と言葉をかけた時、「愚か者め! 世の中が平穏になれば私は干上がってしまうではないか」と応じたと言う。修道士に悪態をつくホークウッドなる人物は、争乱の続くイタリアでいったいどんな働きをしたのだろうか──。


注1:僭主=ルネサンス期のイタリア都市国家で、富裕層などから現れ、実質的に国家を支配した。本稿のミラノのヴィスコンティ家や、フィレンツェのメディチ家が代表例。

イングランドに生まれたホークウッドは、折からの百年戦争に参加してフランスで戦い、ブレティニー条約による休戦後、北イタリアに移った。イタリアは11~12世紀に神聖ローマ皇帝と教皇が争った騒乱の地でもあった。

◆イングランド人傭兵、イタリアへ

一三六〇年、二〇年以上続いていた英仏の百年戦争がひとまずの休戦を迎えた時、大勢の傭兵が働き口を失う結果となった。

それまで中世の軍事力の主たるものといえば、封建君主と主従関係を結んだ騎士達であった。しかし自らも小領主である彼らは、封臣契約で予め定められた内容以上の軍役を拒む傾向にあった。契約以上の軍役を課すには別途の俸給を支給せねばならず、君主からすると騎士とは真に扱いづらい存在でもあった。

そこで君主達は次第に、契約上の制約の多い封建騎士よりも、報酬さえ払えば効率よく軍団を編成できる傭兵を重用するようになっていった。領地経営が立ち行かなくなった小貴族や騎士、職を失った商人や職人、農地を追われた農民などが傭兵の供給源となった。あらゆる地域からやってきた彼らは、契約主と雇用契約を結んだ隊長(多くは小貴族や下級騎士の出身)によって雇われ、傭兵団を形成した。彼らはやがて信頼と個人的な忠誠心によって結びつき、「カンパニー」などと呼ばれる大規模な集団を編成するようになってゆく。十四世紀半ばに勃発した百年戦争においても、こうした傭兵達の姿が封建騎士に混じって各戦場で見られるようになっていた。

傭兵にとって休戦は食い扶持を失う一大事だった。百年戦争の休戦後、フランス国内にいた傭兵達はいくつかの集団を形成し、職を求めてイタリアへと移動を開始した。そしてその集団の中にジョン・ホークウッドの姿もあったのである。

ジョン・ホークウッドは、イングランドはエセックス伯領のシブル・ヘディンガムに生まれたと伝わる。太い眉と茶色の目、長く突き出して歪んだ鼻、雄牛を思わせる力強い肩と腕、などと後世の歴史家はその容姿を伝えるが、それは全て確証のない想像に過ぎず、実像は判明していない。生年についても正確なところは判らないが一三二〇年代らしく、それなりに裕福な家に生まれたことだけは確かなようだ。しかしその資産の多くは長男に相続され、次男であったジョンにはささやかな土地と現金が残されたのみだった。この時代、ジョンのような若者が立身出世するには聖職者になるか兵士になるか二つに一つで、そのうち彼が選んだ道は後者であった。

幸か不幸か、ホークウッドが成人したその時期、百年戦争が勃発していた。フランスへと渡った彼は戦史に名高いクレシーやポワティエの戦いに参加し、エドワード黒太子によって騎士に叙任されたとも言われる。しかしそれらは全て確証のない伝承であり、実際に彼がどういった戦歴を刻んだのか、確かなことは判っていない。とはいえその後の活躍を見るに、戦場で相応の経験を積んだことは想像に難くない。

百年戦争休戦後、フランス北部から中部にいたイングランド兵を中心とする幾つかの傭兵部隊が集まり、白銀に輝く鎧を装備していたことから〈白の軍団(ホワイト・カンパニー)〉と呼ばれた傭兵団を結成した。ロンバルディア(イタリア北西部)へと向かったその軍団の中には、名前をイタリア語化した「ジョバンニ・アクート」で呼ばれることになる、まだ一兵士に過ぎないホークウッドの姿もあった。

ロンバルディアではピエモンテ南部を領するモンフェッラート侯とミラノを支配するヴィスコンティ家との争いが激化しており、〈白の軍団〉は前者に雇われることになった。そして一三六三年四月、ミラノ西方のノヴァラ近郊において、ヴィスコンティ家が雇った傭兵団、〈大軍団〉を完膚無きまでに打ち破ったのである。この時期のホークウッドの働きは定かでは無いが、モンフェッラート侯の配下にホークウッドと思われる「ジョヴァンニ・アウグト」の名があるため、彼が当時同地にいたことは確かなようだ。

タイトルバックのウッチェロの肖像画から、その面影を版画にしたもの。縁なし帽を被り、甲冑を着用して、指揮杖を持っている。ホークウッドは同時代の年代記に頻繁に現れるが、本格的だがいろいろ問題も多い伝記が登場するのはようやく19世紀末であった。
14世紀半ばのイタリアでは、多数の都市・コムーネが分立し、東方貿易などで財を成した都市は支配を周辺農村部へ拡大し、領土を巡る勢力争いが拡大した。すでに終息したものの、北イタリア支配をめぐる神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立の余波も、それぞれに与した都市の間に残り、さらに都市内部の権力闘争もあって、戦争は日常的であった。