第一次ソロモン海戦とサボ島沖夜戦

第一次ソロモン海戦とサボ島沖夜戦

日本海軍「夜戦不敗」神話の絶頂と崩壊の始まり

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ガダルカナル戦の勃発により、中盤に入った太平洋の死闘。まずは自家薬籠中の夜戦で米艦隊の心胆寒からしめた日本艦隊。しかしソロモン戦はぬかるみにはまり、やがて技術力に勝るアメリカ軍は、新戦術をもって苦手な夜戦に挑んで来た!

文=手塚正己(歴史群像2018年4月号)

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上の図は、米軍による第一ソロモン海戦の戦闘概要・航跡図。中央の写真は同海戦で、日本側の探照灯照射に浮かび上がった米重巡洋艦『クインシー』。下の写真は両海戦に参加したが、惜しくもサボ島沖夜戦で沈没した重巡洋艦『古鷹』。

ガダルカナル巡り拮抗する日米両艦隊

ソロモン海は南西太平洋の赤道以南に位置していて、南には珊瑚海さんごかいが開け、北のニューブリテン島、東のソロモン諸島、西のニューギニアに囲まれている。ソロモン諸島の一つサボ島の東、フロリダ諸島の南、ガダルカナル島の北の海域は、日米豪の艦船や航空機が多数沈んでいることから、「アイアンボトム・サウンド(Ironbottom Sound=鉄底海峡)」と呼ばれている。ここで沈没した艦ふねと輸送船、給油艦だけを拾い出すと、日本軍が戦艦二、重巡一、駆逐艦七、潜水艦二、輸送船七の計一九隻、連合軍の米軍が重巡五、軽巡一、駆逐艦一三、輸送船二、給油艦一、豪軍が重巡一の計二三隻、総計合計四二隻となる。

ソロモン戦全期を通し、周辺を含む広い海域で失われた艦船はより大きな数に上るが、近代戦とはいえ、昭和十七年(一九四二)八月から翌十八年四月までの約八か月間に、限られた海域でこれほど多数の艦船が沈没した例はかつてない。

昭和十七年三月上旬に、ビルマのラングーンと蘭印(現インドネシア)を占領した日本軍は、第一段作戦の所期の目的をほぼ達成した。四月になって第二段作戦の検討が行われた結果、豪州が連合国軍の反撃拠点になるのを危惧した日本海軍は、米豪間の遮断を目的とした作戦を二つ立案した。

一つ目はハワイからオーストラリアに繋がる海上ルートの要所であるサモア諸島とフィジー諸島、ニューカレドニア島の攻略を目的としたFS作戦(フィジー・サモア諸島作戦)で、二つ目はFS作戦構想に呼応して、ニューギニア南岸の要衝ポートモレスビーを、海上から攻略するMO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)である。

五月七日から八日にかけて、「珊瑚海海戦」が生起した。この海戦はポートモレスビー攻略部隊の支援のために出動した機動部隊と、迎え撃つ米空母部隊による史上初の空母対空母の戦いになった。勝敗は日本軍にやや有利と見えたが、この海戦で作戦本来の目的であるMO作戦は中止となった。さらに六月五日から七日にかけての「ミッドウェー海戦」で、日本海軍が大敗北を喫したのを受けて、FS作戦とMO作戦の中止が決定し、第二段作戦計画は破綻してしまった。

それでも日本軍は、米豪分断の方針を堅持、基地航空部隊をラバウル以南に進出させ、航空兵力の増強を図った。その後、検討を重ねた結果、ガダルカナル島(以降、ガ島と呼称)北岸中央部のルンガ岬が飛行場用地として選ばれた。

五月三日以降、手はじめに飛行艇の水上基地設置のための設営隊が、ガ島と水道を挟んで対岸に浮かぶフロリダ諸島内にあるツラギ、ガブツ、タナンボコの三島に進出した。ツラギ島には第八十四警備隊(約四〇〇名)の本部が設置され、一部の隊員(約五〇名)が水上基地のあるガブツ島(三四二名)の防衛に派遣された。

七月六日、第四艦隊麾下の第十一設営隊と第十三設営隊(計二五七一名)、呉第三特別陸戦隊のガダルカナル警備隊(二四七名)が順次、ガ島の土を踏んだ。この地でも、例によって建設道具と資材の不足と不備に悩まされた。それでも連日の突貫工事の末に、八月五日には八〇〇メートル×六〇メートルの滑走路を一本と、兵舎、指揮所、戦闘機用掩体壕など主要な施設を完成し、戦闘機のような小型機の進出を可能にした。

アメリカ軍に占領された直後のルンガ飛行場。 日本軍の設営隊がジャングルを切り開き、ようやく形を整えたところで奪い取られ、ここの奪還を巡り日本軍は泥沼の消耗戦を強いられていく。

これより先の七月十四日、戦時編制の改正に伴い第八艦隊が新設され、司令長官に三川軍一みかわぐんいち中将(海兵三十八期)が親補された。第八艦隊はニューギニア東部からソロモン諸島にかけての南東方面(外南洋)の防衛を目的とする艦隊で、外南洋部隊とも称された。

七月十九日、内海西部の柱島はしらじま泊地を発した第八艦隊旗艦の重巡『鳥海ちょうかい』は、同月二十五日にトラック泊地に入港した。三川長官は第四艦隊司令長官の井上成美いのうえしげよし中将(海兵三十七期)と、作戦の分担と最近の敵情についての打合せを済ませると、三十日にはラバウルに進出、陸上に第八艦隊司令部を設けた。

ミッドウェーで空母四隻を失ったとはいえ、まだ十分に強力な日本海軍。そして、大建造計画に着手したが、まだ当面は手持ちの部隊で戦わねばならないアメリカ海軍。この両者が、ソロモン方面でほぼ均衡した艦隊勢力を以て対峙したのである。

そして、いくつかの空母戦と水上戦闘部隊同士による激闘が繰り広げられるが、本稿では、その緒戦における二つの水上戦闘に注目したい。第一次ソロモン海戦とサボ島沖夜戦である。

両海戦で日本軍の中核となったのは、ともに第六戦隊であった。そして、その結果は好対照をなすものとなったのである。

第一次ソロモン海戦

急襲されたガ島

ガ島の飛行場が完成した二日後の八月七日午前四時十二分、第八艦隊司令部はツラギ通信基地から『敵猛爆中』の緊急信を受信した。続いて四時二十五分には『敵機動部隊見ユ』『敵機動部隊二〇隻「ツラギ」に来襲空爆中 上陸準備中 救援頼ム』、午前五時十九分には『敵ハ「ツラギ」ニ上陸開始』との悲鳴にも似た電報が次々と飛び込んできた。

ツラギ、ガブツ、タナンボコなどの島々に米海兵隊が上陸を敢行したのだ。最初の緊急信から二時間近くが経過した午前六時過ぎ、『敵兵力大 最後ノ一兵迄まで守ル 武運長久ヲ祈ル』の発信を最後に連絡は途絶した。

一方、艦砲射撃と空母艦載機の支援を受けた米海兵隊は、七時十分にガ島上陸を開始、日没までに日本軍飛行場を奪取し、八月九日までにガ島に一万九〇〇名、ツラギ方面に六〇七五名が上陸を完了した。

同日、ニューアイルランド島北端のカビエンに在泊中だった第八艦隊隷下の第六戦隊司令官五藤存知ごとうありとも少将(海兵三十八期)は、午前四時十二分過ぎに第一小隊の重巡『鳥海』『青葉あおば』『加古かこ』を率いてブナ輸送支援のためにアドミラルティ諸島方面へ、第二小隊の重巡『衣笠きぬがさ』『古鷹ふるたか』は、『衣笠』艦長の沢正雄さわまさお大佐(海兵四十四期)指揮の下にラバウルに向けて出港した。

第八艦隊司令長官・三川軍一中 将。海大に進み、海外武官も務めたエリートで、ソロモン戦のあとも艦隊長官を歴任。昭和56年没。
第六戦隊司令官・五藤存知少将。 水雷屋として駆逐艦長や駆逐隊司令、二水戦司令官を歴任。サボ 島沖夜戦で戦死(死後中将)。