徳川慶喜と渋沢栄一

徳川慶喜と渋沢栄一

主従で紡いだ信頼と敬愛の絆

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将軍後見職、禁裏守衛総督をへて将軍に就任。動乱の幕末、地に堕ちた幕府の復権をめざすも、鳥羽伏見の戦いから離脱し、ついに朝敵となった。その徳川慶喜に終生、誠を尽くしたのが、はじめ攘夷思想にかぶれた渋沢栄一だった。縁あって一橋家に仕官し、慶喜の信頼を得たが、大政奉還、慶喜の辞官納地を見ることはなかった。欧州から帰国後、栄一は、旧主の雪冤を雪ぐ。

文=桐野作人(歴史群像2021年8月号)

【タイトルバック画像】

将軍在任時の徳川慶喜(国立国会図書館デジタルコレクション)とパリで撮影された和服姿の渋沢栄一(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)


第一章 共通する挫折体験

[慶/栄]大河ドラマで交差する二人

今年(二〇二一年)の大河ドラマ「青天をけ」では、当時、まったく別世界にいる主人公の渋沢栄一と将軍家の貴公子、徳川慶喜よしのぶの生涯を同時並行的に描きながら、二人の人生が交差することによって化学変化が起きるという物語構造になっている。

二人の描き方が大変興味深いが、この小文でも同様の手法を採ってみようと思う。もっとも、ここでの主人公はドラマとは逆で慶喜のほうである。

[慶]将軍継嗣問題での挫折

徳川慶喜(一八三七~一九一三)には、その出自しゅつじにまつわる二つの「宿命」が刻印されていた。

ひとつは「烈公れつこう」と尊称された水戸藩主の徳川斉昭なりあきの息子(七男の松平七郎麿しちろうまろ)だったことである。しかも、斉昭は七郎麿こと慶喜の聡明さを見込み、養子にも出さず、「天晴あっぱれ名将の器」と称して秘蔵しており、嫡男慶篤よしあつの予備として、じきじきの帝王学を身につけさせていた。

斉昭が全国の各層から巻き起こった攘夷運動の元祖、領袖りょうしゅうとして尊崇されたことから、慶喜も烈公の子として、幕府や譜代からは警戒される一方、親藩しんぱん・外様雄藩諸侯からは歓迎され、全国の攘夷勢力からは仰ぎ見られる存在になっていく。

二つめは、生母の登美宮吉子とみやのみやよしこ有栖川宮ありすがわのみや家六代目の当主織仁おりひと親王の娘だったことである。その先祖は霊元れいげん天皇(一六五四~一七三二)までさかのぼる。すなわち、慶喜は霊元天皇五代の孫にあたる。女系とはいえ、歴代将軍のなかで唯一、天皇家の血縁につながっていた。のちに将軍後見職として上洛し、激動の京都政局に関与すると、この血統がプラスとマイナスの両面に作用することになる。

徳川宗家は後継者問題を抱えていた。十二代将軍家慶いえよし(一七九三~一八五三)は父家斉いえなりほどではないが、二九人という多数の子女をした。しかし、ほとんどが早世し、男子で成人したのは四男の家祥いえさち(のち十三代将軍家定いえさだ)のみだった。しかも、家祥は虚弱なうえ、側近が「男女の道にもおさわりあり」と書いたほど子を為せない体質だった(「朝比奈閑水手記あさひなかんすいしゅき」)。

家慶は世子せいしの家祥の将来が不安で、家祥に養嗣子を迎えたほうがよいのではと危惧きぐしていたので、一門に誰か候補がいないかと考えた。老中阿部正弘まさひろは家慶の意を受けて、斉昭の息子、七郎麿に白羽の矢を立て一橋家に入れようと動いた。

なお、御三卿ごさんきょう(田安・一橋・清水)は将軍吉宗よしむね家重いえしげが自分の庶子しょしを入れて創出した一門である。宗家が絶えた場合、御三卿から次の将軍を出す制度で、実際、十一代将軍家斉は一橋家から出ている。

老中阿部は家慶に相談のうえ、七郎麿の一橋家入りを決めた。弘化こうか四年(一八四七)十月一日、七郎麿は登城して家慶に拝謁し、一橋家の相続、十万石拝領を許された。さらに十二月一日、家慶から偏諱へんきを賜って慶喜と名乗り、合わせて従三位左近衛権中将じゅさんみさこんえのごんのちゅうじょうに叙任され、刑部卿ぎょうぶきょうと名乗ることになった。ときに慶喜、十一歳だった。

家慶は慶喜をいずれは世子家祥の継嗣にする含みだったという。そのせいか、家慶は慶喜を実の我が子のように可愛がった。側近に「七郎麿は初之丞はつのじょうによく似ている」と感慨を洩らしたという。初之丞とは一橋家を継いだ五男慶昌よしまさのことで、十四歳で早世していた。家慶は慶喜に亡きわが子の面影を見たのである。

しかし、嘉永かえい六年(一八五三)六月、慶喜を寵愛ちょうあいした家慶が他界した。慶喜は最大の庇護ひご者を失った。しかも、家慶はついに慶喜を家祥の継嗣にすると正式に表明しなかった。

家慶の死去は折からペリー艦隊が浦賀に来航し、国中が混乱、動揺しているさなかだった。世子の家祥が将軍となり、名を家定と改めた。

七月、ペリー艦隊が去ったのち、斉昭は海防参与に任命された。斉昭はさっそく「海防愚存ぐそん」という意見書を提出した。これにより、江戸湾に台場を築造するなど海防強化が図られた。

しかし、幕府で権威を高めつつあった斉昭と水戸藩に相次いで不幸が襲う。安政あんせい二年(一八五五)十月二日、江戸を大地震が襲った。安政の大地震である。江戸市中は万を超える家屋倒壊と死者が生じる大災害だった。

小石川の水戸藩邸でも、斉昭の側近だった藤田東湖とうおこと戸田忠敞ただたかが圧死した。以降、助言者を失った斉昭は精彩を欠いて迷走するようになる。

さらに同四年六月、斉昭の盟友だった老中阿部が病没した。享年三十九という若さだった。その死によって言路洞開げんろどうかい※注1による衆議主義が後退し、再び門閥譜代層による旧来の専制的な幕府政治が復活した。

将軍継嗣問題は日米修好通商条約調印の勅許問題と同時進行したため、複雑な様相を呈した。斉昭、松平慶永よしなが(のち春嶽しゅんがく)・島津斉彬なりあきららは慶喜を将軍継嗣にしようと動く。とくに慶永の腹心、橋本左内さないは慶喜の側近、平岡円四郎えんしろうからの聞き取りで、「橋公略行状」という慶喜の英明さを具体的にまとめた建白書を作成して、幕閣に提出し、その写しも各方面に配付された。

だが、そうした世論工作も実らなかった。幕閣・大奥をはじめ、溜間詰たまりのまづめ※注2など親藩・譜代大名がこぞって斉昭を嫌悪し、慶喜擁立に反対した。劣勢の斉昭らは朝廷工作を重視し、孝明こうめい天皇から「英明・年長・人望」を次期将軍の三条件とする内勅降下を得ようとした。これに橋本左内や西郷吉之助きちのすけ(当時、吉兵衛きちべえ。のち隆盛たかもり)が奔走したが、関白九条尚忠ひさただの策動で失敗した。

そして翌五年(一八五八)四月、慶喜継嗣に傾いていた老中堀田正睦まさよしに替わって井伊直弼なおすけが大老に就任すると、形勢が一転した。五月、将軍家定は幕閣に世子は紀州慶福よしとみ(のち家茂いえもち)にすると通告した。これにより慶喜の継嗣の目はなくなったのである。

さらに井伊はもはや開国は避けられないとみて、六月十九日、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印に踏み切った。そして二十五日、すべての大名に総登城を通告した。

しかし、斉昭や慶永らは待ちきれずに前日の二十四日、異例の押しかけ登城を決行して、井伊の違勅いちょく調印を厳しく難詰なんきつした。それを柳に風と受け流した井伊は返す刀で、徒党を組んでの不時登城のかどで斉昭ら一橋派大名に隠居・謹慎処分を下した。

慶喜は同一行動をとらず、翌朝、正式に登城して井伊と面会した。ときに慶喜二十二歳、井伊四十四歳だった。慶喜は井伊の条約調印について問いただしたが、条約調印した以上、朝廷にすぐさま使者を立てなければならないのに、届け捨てにしたのは「何たる不敬、天朝てんちょうを軽蔑する罪は重大なり」と厳しく批判した。慶喜の井伊批判は斉昭らとスタンスが違い、条約調印を違勅として責め立てるのではなく、その手続きや事後処理を問題視したのである。

しかし、井伊はこの際、一気に一橋派を一網打尽いちもうだじんにしようと、不時登城をしていない慶喜も隠居・謹慎処分にした。慶喜が処罰されたことで、一橋派の敗北は決定的になった。

その後、違勅調印に怒った孝明天皇が幕府の頭越しに水戸藩に対して、幕府が天皇の許しを得ずに条約を結んだことを責め、朝廷と幕府の関係を密にするようにと密勅みっちょくを与えた(戊午ぼごの密勅)。これが発端となって、井伊大老の安政の大獄たいごくが断行され、多くの犠牲者が出るとともに、井伊自身も水戸と薩摩の浪士たちによって桜田門外で襲撃されて殺害されることになる。


注1:言路洞開=上層部への意見具申が認められていること。

注2:溜間詰=江戸城黒書院溜間に席をもつ、幕政顧問の立場にある大名。井伊・高松・会津松平・姫路酒井家など。

[栄]攘夷挙兵計画の断念

渋沢栄一(一八四〇~一九三一)は身分上、徳川慶喜とは対照的で百姓の出身である。百姓といっても、北武蔵の豪農で裕福な家に生まれた。生家は武蔵国榛沢はんざわ血洗島ちあらいじま村(現・埼玉県深谷市血洗島)にある。この周辺は安部摂津守せっつのかみの所領。岡部藩といい、石高は二万石余で譜代の小大名だった。

栄一の父は市郎右衛門いちろうえもん、母はえいという。母は家付きの娘で、父が養子入りした。血洗島村には渋沢姓の家が十数戸あって同族を形成していた。栄一の家はその宗家(中の家なかんち)だった。

この村周辺では農耕のほか、養蚕ようさん藍玉あいだまの製造・販売で生計を立てており、いわば、半農・半商という形の生業なりわいが多かった。市郎右衛門はその代表的な人物。謹厳実直の勤勉家で、藍玉の鑑定では並ぶ者がないといわれたほど。その精励ぶりで祖父の代に傾いた家産を回復させ、村で二番目の富豪となったほどである。