鉄腕ゲッツ伝

鉄腕ゲッツ伝

戦いの日々を生きた中世末ドイツ伝説の騎士

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第二次大戦の西部戦線で戦った第17SS装甲擲弾兵師団の部隊名「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」は鉄の義手を着けた実在の騎士の名である。中世末から近世への激動の時代を暴れまわり、「盗賊騎士」とも呼ばれ、「俺の尻をなめろ!」の啖呵でも知られるその生涯とは?

文=荒川佳夫(歴史群像2018年8月号)

【タイトルバック画像】

生誕の地、ヤクストハウゼン城(現在はゲッツェンブルク=ゲッツの城とも呼ばれている)に所蔵されているゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンの肖像が描かれたガラス絵(16世紀半ば)。穏やかな表情だが、その生涯は闘争に次ぐ闘争の連続であった。

かのヴォルフガング・モーツァルトが残した作品の中に「俺の尻をなめろ(Leck mich im Arsch)」という声楽曲が存在することを御存じだろうか。タイトル通りの歌詞で始まるこの曲を彼がなぜ作曲したのか、その経緯は定かではない。もしかすると同時代に生きたゲーテの戯曲の中に出てくる台詞に影響されたのかもしれない。

「鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」という題名のその戯曲の中で、主人公ゲッツが「俺の尻をなめろ!」と叫ぶ場面があるのだ。それは日本語で言えば「くそったれ」とか「引っ込んでろ」という意味になるらしい。何とも下品な台詞を吐く主人公だが、作中では農民のために戦う英雄として描かれている。

この主人公ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンには、モデルとなった同名の人物がいる。しかし実在の彼は、戯曲の主人公とは随分と違った人物であった。では、鉄の腕を持つゲッツという男は、実際にはどんな人物で、一五二四年にドイツで勃発した大規模な農民一揆――ドイツ農民戦争では、農民たちといかに関わったのだろうか。

騎士として生まれて

一四八〇(あるいは一四八一)年に神聖ローマ帝国(ドイツ)南西部のフランケン地方・ヤクストハウゼン城に生まれたゲッツの本名は、ゴットフリート・フォン・ベルリヒンゲンという。ゲッツはゴットフリートの愛称で、その一族は皇帝より封土を授かる皇帝直属の帝国騎士であった。

とはいえその頃、かつて中世ヨーロッパの花形であった騎士にとっては厳しい時代が到来していた。重装の騎士が戦場を支配した時は終わり、一三〇二年のコルトレイク(クールトレー)の戦い注1や一三一五年と一三八六年のハプスブルク家とスイス誓約同盟注2の戦いに見られるように、まるで古代に逆戻りしたかのような長柄武器を装備した歩兵方陣の前に騎士は惨敗を喫するようになっていた。そうした歩兵の台頭に加え、火縄銃などの火器が普及すると、ますます彼らの活躍する場は奪われていった。

しかも当時のドイツは地方の聖俗諸侯(大貴族)が力を保持し、それぞれが己の利益を第一として衝突したため国家としての統一が進まず、多数の小国に分裂した領邦国家の体制を形成しつつあった。

特にドイツ王(ローマ王とも。ローマ教皇によって戴冠されることで神聖ローマ皇帝となる)を選挙によって選出する権利を有したは、裁判権や貨幣鋳造権、関税徴収権などの特権も認められ、国政を左右するほどの権力を有していた。また遠距離貿易が活性化し貨幣経済が浸透して以降、ニュルンベルクやアウクスブルクといった帝国自由都市(皇帝直属で一定の自治権を有した都市)は経済力を武器にして、大貴族さながらにその勢力圏を広げていた。

その中にあって特権も有さず富を蓄積する方法も持たぬ騎士などの下級貴族は、独自に与えられた封土の収入だけでは足りず、大貴族に官職として仕えるか、傭兵稼業に身をやつすかなど、生きてゆくための方法を模索せざるを得なくなっていた。

そうした騎士にとっての受難の時代に生まれたゲッツは十四歳の時、親戚筋の帝国騎士で、当時はブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯注3フリードリヒ二世に仕えていたコンラート・フォン・ベルリヒンゲンの元で騎士見習いの小姓となった。幼少の頃から血気盛んだった彼の性格は小姓となってからも変わらず、反りが合わない仲間と決闘騒ぎを起こし、罰として塔に放り込まれることもあった。

一四九五年、ゲッツがコンラートと共に辺境伯の御供をして赴いたヴォルムスの帝国議会において、フェーデを禁止する永久ラント平和令が発布された。フェーデとは古いゲルマン法にあった自力救済権に基づく権利で、貴族間で問題が持ち上がった際、皇帝の裁可を得ずして、それを武力で解決することを言った。この年の帝国議会ではそのフェーデが禁止され、以後は裁判によって決着を付けることが定められたのである。

実はゲッツは、やがてそのフェーデで名を成すことになるのだが、彼がこの年の議会に立ち会ったとは何とも皮肉なことだったといえよう。

騎士衰退の象徴的な戦闘の一つ。神聖ローマ帝国内で自由と自治を求めたスイス誓約同盟がハプスブルク騎士軍を撃破したモルガルテンの戦い(1315年)。隘路で石や丸太を落とし(左)、鉾槍で襲撃する(右)スイス人。その後、長槍を主兵器にしたスイス軍は勝利を重ね、傭兵として活躍する。
(上)神聖ローマ帝国は、歴代皇帝がイタリア政策に熱中したことなどから、早くから地方勢力が強く分裂状態が続いた。15世紀以降皇帝はオーストリア・ハプスブルク家から出すことになったが、中央集権は進まず、国内には数多くの教会領や自由都市、さらに諸侯の領土がモザイクのように分立し、その中にゲッツのような下級貴族の封土も点在していた。 (下)ゲッツが生まれ、日常を生き、フェーデに暴れまわった主な舞台。さらに対外戦争にも参加し、活躍の機会は余りなかったが、スイスやフランスへも出陣している。のちに関わるドイツ農民戦争における行動範囲は下の地図を参照。

注1:コルトレイク(クールトレー)の戦い=1302年、毛織物業が盛んなフランドルの諸都市連合と、同地を支配下に収めようとしたフランスとの間で勃発した戦闘。都市連合軍の歩兵方陣が中世ヨーロッパの主兵力であった重装騎兵を破ったことで知られる。倒された騎士の金の拍車が戦利品となったことで、金拍車の戦いとも呼ばれる。

注2:スイス誓約同盟=ハプスブルク家の支配から脱しようとしたスイスの3州、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンが1291年に結んだ永久盟約のこと。ハプスブルク軍の侵攻を受けるが、1315年のモルガルテンと1386年のゼンパッハの戦いでは地の利を得たスイス歩兵が騎兵中心のハプスブルク軍に勝利し、スイス独立の端緒を開いた。

注3:辺境伯=元は国境地帯の防衛のために設置された地域を統括した高官だが、のちに世襲となり諸侯化した。