人物研究 山本権兵衛

人物研究 山本権兵衛

帝国海軍を育てた男

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幕末、攘夷戦争を経験した薩摩兵児は、誕生したばかりの日本海軍に入り、その海軍を世界有数の存在に仕立て上げ、のちには首相を務める。稀代の軍政家の実像を探る。

文=長南政義(歴史群像2013年8月号)

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晩年の山本権兵衛。

権兵衛のイメージ

「豪胆事に当りて善く断す」。山本権兵衛ごんべえの死去に際し、昭和天皇はこのような誄詞るいし下賜かししている。日本海軍の育ての親と言われる山本には、豪胆伝説が多い。そのため一般に流布している山本のイメージは、切れ者ではあるが、傲岸不遜ごうがんふそんの人物というものであり、その剛腹ごうふくの裏に潜む思慮の細心精到さは一般によく知られていない。

山本権兵衛に関しては、正伝『伯爵山本権兵衛伝』全二巻のほかに、千早正隆氏や生出寿おいでひさし氏などによる伝記が刊行されている。しかし、先行研究ではエピソードが中心となるあまり、その生い立ちが海軍軍人としての思想や生き方に与えた影響、また軍政家としての役割や、とくに政治家・山本の役割については深く分析されてこなかった。そこで、本稿ではその三つに焦点を絞り山本の小伝を書きたいと思う。

その生い立ち

山本権兵衛は、嘉永五年(一八五二)十月十五日※注1、薩摩国鹿児島城下の加治屋町で薩摩藩士・山本五百助盛珉いおすけもりたみの六男として生まれた。父の盛珉は書画を能くし、藩の右筆(武家の書記官)や藩主の書道指南役を務めた人物である。

山本は幼少より剛毅にして人に屈しない気風があり、子供同士の喧嘩の際に山本が出て来ると皆が「それ権兵衛が来た」と逃げ去ったという。そんな山本を盛珉は「権兵衛はく行けば立派なる人物に成るが、一歩を誤ればドンナ人間に成るか分らん」と評し、厳格な教育を施した(『伯爵山本権兵衛伝 巻上』)。

山本の初陣は十二歳の時であった。文久三年(一八六三)七月の薩英戦争に際し、砲弾運搬などの雑役として実戦に参加したのである。権兵衛少年は彼我の火砲・弾薬の技術力の差や、英国艦隊の操艦術の巧妙さに強い印象を抱いたことであろう。

慶応三年(一八六七)、十六歳になった山本は、薩摩藩兵小銃第八番小隊に入り、慶応四年の鳥羽・伏見の戦いに従軍したのち、越後口に進軍して各所を転戦した。軍人にとって実戦経験に勝るものはない。戊辰戦争の従軍経験は山本にとって大きな財産となった。

明治二年(一八六九)三月、十八歳になった山本は、薩摩藩から選抜されて東京に遊学し、昌平黌しょうへいこう※注2に入校した。在学中、西郷隆盛が薩摩藩兵を率いて箱館に赴くこととなったので、山本は小斥候として従軍したものの、箱館到着以前に同地は平定されたため帰京し昌平黌に復学、のち開成所※注3に転学した。


注1:以下、年月日は明治5年12月2日(1872年12月31日)までは旧暦を使用。

注2:江戸幕府が開学した昌平坂学問所を明治新政府が引き継いだ学校。

注3:開成所は東京大学の前身の開成学校。洋学の教育・研究機関であった。

海軍軍人へ

山本が昌平黌や開成所で学んだのには次のような経緯があった。東京遊学以前、彼は西郷隆盛から将来海軍の道に進むことを勧告され、自身もその志があったので海軍の道を志望した。そこで西郷は、勝海舟に宛てた紹介状を書いた。

山本は東京に着くや西郷の紹介状を懐に勝に面会を求めた。教えを乞う山本に対し勝は、海軍修業が容易でないのでほかの道に進むことを勧めた。山本はそれでも通い続け、勝は三日目にしてようやく、容易な道ではないが、そこまで思い込んだのであれば達成できるであろうと述べたうえで、「洋学の知識に待たざれば、海軍学術に通暁つうぎょうし難し、故に其方針にてもって高等普通学、数学等を修めて海軍に入るの素養を作らざるべからず」と海軍修業における洋学学習の重要性を懇切に教えさとした(『伯爵山本権兵衛伝 巻上』)。山本が海軍に進んだ背景には西郷および勝という恩人がいたことになるわけだ。

勝の助言にしたがい洋学の研鑽けんさんに励む山本に好機が訪れた。明治二年九月、海軍操練所が東京に設置されるや、藩に選ばれて鹿児島藩貢進生こうしんせいとして同所に入学することとなったのである。

明治三年に、海軍操練所は海軍兵学寮と改められ、山本も海軍兵学寮幼年生徒となった。明治七年(一八七四)十月、山本は海軍兵学寮を卒業し、同年十一月、海軍少尉補に任じられた。

海軍兵学寮時代の山本に関しては、実戦経験のない近藤真琴まことらの教官から教えを受けることを潔しとせず、山本が首謀者となって教官排斥の運動を起こしたという話がよく引用される。しかし山本は、明治五年八月には兵学頭の中牟田なかむた倉之助より「是迄行状宜敷且これまでぎょうじょうよろしくかつ勉励に付、自今生徒の諸役しょやく差免候事さしゆるしそうろうこと」と表彰されている(『伯爵山本権兵衛伝 巻上』)。諸役とは食卓週番および内外掃除番のことを意味するが、教官をやり込めた話のみで海軍兵学寮時代の山本を語るのは片寄った見方といえよう。

本稿が、西郷を山本の恩人の一人とするのには別の理由もある。西郷が山本の海軍兵学寮退校を引き留めたのがそれだ。
明治七年二月、山本は、征韓論政変に伴い参議の職を辞して帰国した西郷に面会するために、左近允隼太さこんじょうはやたと共に鹿児島に帰省※注4した。

二人と面会した西郷は、「我国は支那及び魯国ろこく等に隣接して東洋に立つを以て、一朝想像し難き国難に遭遇する場合に臨みては、ひとへに海軍の力に依るの外なし」と述べ、「決して目下の政治問題等に関することなく、堅き覚悟を以て、余事をなげうち、一意専心、海軍の修業に励み、将来国家の為め努力せられんことこそ、老生の君等に切望してまざる所なり」と懇切に説き諭した。

山本は西郷のこの言葉に自己の思慮の足りなさを悟り、「今より他を顧みず一意海軍の修業に励み、将来国家の為め一身を捧げて御奉公申上ぐべき」旨を西郷に誓った(『伯爵山本権兵衛伝 巻上』)。

左近允はのちに帰国して薩軍に投じ、西南戦争で戦死したというから、運命の大きな転換点であった。海軍修業に賭ける山本の情熱や使命感は、この西郷の一言で不動のものとして定まったといえよう。


注4:海軍兵学寮の規則では、郷里の父母の病気を見舞うほかは遠方への旅行は許可されていなかった。このため、この帰省は、山本の親戚で身元引受人である高木秀明が帰省願いの手続きを行い、実現したものだった。