ドイツ軍の対ソ侵攻の前に、なぜソ連赤軍の防衛体制は何もできぬまま崩壊したのか。ジューコフの回顧録を中心に、開戦前夜に至るスターリンの情勢判断を検証する。
文=守屋 純(歴史群像2021年8月号)
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(上)スターリンと(下)ジューコフ。(中)「バルバロッサ」作戦の緒戦、ソ連領に侵攻するドイツ軍部隊。
二十世紀の歴史で、現在まで論議を呼び、様々な「陰謀論」を生み出している問題の一つに、ヒトラーによる「バルバロッサ」作戦開始の時、なぜスターリンは多くの事前の通報を無視して、国境をほとんど無防備のまま放置したかが挙げられる。これは「真珠湾攻撃・アメリカ謀略説」などと並んで、これからも論議が続けられる問題だろう。
独ソ開戦の時、ソ連側の最も重要な関係者の一人が、参謀総長ゲオルギー・ジューコフだった。そこで、一九七〇年代に出版されたものの、ソ連当局によって検閲削除されていたジューコフの回顧録の完全版を中心に、粛清の嵐が一段落したあとのジューコフの足跡をたどりつつ、ソ連国防の第一線に立つようになる経過と、参謀総長に就任してから、独ソ開戦直前までのスターリンとのやりとりを見てゆき、真相はどうであったのかを検証してみたい。
ジューコフとノモンハン戦
ジューコフについて、我が国で真っ先に取り上げられるのは、一九三九年五月から九月にかけて満蒙国境で展開された日ソ両軍の戦闘、いわゆる「ノモンハン事件」、ソ連側呼称「ハルハ河戦」であろう。この事件が勃発した時、ジューコフは白ロシア特別軍管区司令官代理で、ミンスクに駐屯していたが、新たに彼が任命されたのは、当時ソ連以外で唯一の共産党独裁国家モンゴル人民共和国に駐屯していたソ連第57軍団長であった。
どうしてジューコフが僻遠の地の指揮官に起用されたのか、ということの真相は、まだ完全には明らかになっていない。最も信じられる理由は、当時参謀総長代理だったマトヴェイ・ザハロフ(のち元帥)が、同じ騎兵として、参謀総長のシャポシニーコフにジューコフを推薦し、やはり騎兵出身の国防人民委員ヴォロシーロフもこれに賛成して、スターリンに献策したためだといわれる。
ノモンハン戦でのジューコフの卓越した指揮により、国境紛争はソ蒙軍側の優勢に終わり、停戦交渉でソ連側は満ソ国境線をハルハ河東方二〇キロに定めることを日本側に認めさせた。だが、これほどの功績にもかかわらず、ジューコフはその後もしばらくモンゴルに留め置かれ、モスクワに帰ったのは一九四〇年五月である。
この間には、ソ連とスターリン、そして赤軍にとって重大事が続発しており、それはジューコフの戦勝報告さえも後回しにせざるを得ないほどだった。それらを時系列によって示すと、以下のようになる。
● 一九三九年九月十七日:独ソ不可侵条約の秘密議定書を根拠にして、赤軍がポーランドに侵入。主力はコヴァリョフ指揮の白ロシア特別軍管区とティモシェンコ指揮のキエフ特別軍管区。
● 同年九月二十八日:ポーランド分割に関する「独ソ国境友好条約」が締結される。この日から十月十日までに、ソ連とリトアニア・ラトビア・エストニアのいわゆるバルト三国との間で、それぞれ「相互援助条約」が結ばれ、ソ連の海空軍基地が設置される。
● 同年十一月三十日:「フィンランド側による不法な砲撃に対抗するため」、赤軍はフィンランドに対する総攻撃を開始。いわゆる「冬戦争」の始まり。
● 一九四〇年一月七日:赤軍苦戦のため態勢の立て直し。キエフ特別軍管区司令官ティモシェンコ指揮の北西方面軍編成。
● 同年一月十二日:赤軍、第二次総攻撃開始。
● 同年三月十二日:ソ連・フィンランド講和条約締結。
● 同年四月十四~十七日:「ソ連共産党中央委員会・対フィンランド戦争体験収集のための指揮官集会」(通称、「対フィンランド戦争戦訓検討会」)開催。
この「対フィンランド戦争戦訓検討会」は、赤軍のあまりの拙戦ぶりに衝撃を受けたスターリンが、停戦後、急遽召集したものであった。スターリンは「満洲やハーサン湖(張鼓峰事件のこと)、モンゴルでの散発的事件は些事であって、戦争ではない。かように我が軍はこれまで、真の戦争の機会がなかった。内戦はとても本式の戦争とはいえない」と述べている。またジューコフも、スターリンから直接聞いたこととして、次のように証言している。「遺憾ながら、フィンランドとの戦争では、緒戦で我が方の多くの軍と軍団が劣悪な状態にあることが露呈してしまった。その責任の多くは、長年国軍を指導してきた前国防人民委員ヴォロシーロフにあり、彼を更迭せざるをえない。ティモシェンコの方がもっと軍事問題に精通している」。
この戦訓検討会ののち、五月四日付けで赤軍の大々的な人事異動が以下のように発令された。
・国防人民委員:ヴォロシーロフ→ティモシェンコ
・キエフ特別軍管区司令官:ティモシェンコ→ジューコフ
・参謀総長:シャポシニーコフ→メレツコフ
・白ロシア特別軍管区司令官:コヴァリョフ→パブロフ。
そして七日付けで、革命以来廃止されていた陸海軍の将官呼称(ゲネラールとアドミラール)が復活し、ジューコフは「上級大将」(ゲネラル・アルミーヤ)に昇進した。この人事を受領するため、ジューコフはモンゴルからモスクワに召還されたのである。
ジューコフはただ「五月初め」としか回顧録で触れていないが、前記の将官呼称伝達のためモスクワに召還されて、六月初めにはスターリンに会い、ノモンハン戦の詳しい報告をしたようである。この時からジューコフは、スターリンに対する愛憎相半ばする印象を終生持ち続けることになる。
とにかく、一気にキエフ特別軍管区(開戦と同時に南西部方面軍)という最重要軍管区の司令官に抜擢されたことで、ジューコフは来るべき対独戦に対処する国防上の枢要の地位についた。

