中世、「日本国」外の「異域」とされた蝦夷島(北海道)および津軽・下北地方。しかし、大陸や環日本海海域に開かれた津軽海峡の南北では様々な勢力が往来し、大名や土豪、アイヌ、新興和人勢力が対立・連携しながら攻防を繰り広げた。北方世界の戦国史を概観する。
文=山上至人(歴史群像2021年8月号)
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上)北から函館湾・津軽海峡を望む。画面奥左右には下北半島と津軽半島も見える。函館湾の陸繋島・函館山の麓には宇須岸館が築かれ、後にその跡地に箱館奉行所が置かれた。右)白老町・旧アイヌ民族博物館にあったコタンコロクル像。2018年にウポポイ(「民族共生象徴空間」)の整備事業に伴って解体された。
◆しょっぱい川
北海道の西部から内浦湾を抱き込むように南西に伸びる渡島半島(道南地方)は、その先端部が日本海に面する松前半島と太平洋に面する亀田半島の二方向に分岐しており、ちょうど、それぞれが津軽海峡を挟んで津軽半島、下北半島と向き合う形となっている。
現在の感覚では海峡を境に北海道と東北北部を分けて考えがちだが、その幅は最狭部となる汐首岬と大間崎の間で一八・七キロメートルほどであり、津軽海峡が、かつてアイヌから「しょっぱい川」と呼ばれていたことからも分かるように海を介してヒトやモノが盛んに往来し、古代から中世にかけて一体の経済・文化圏を形成していた。
海峡の南北では様々な勢力が活発に活動し、十五世紀半ばには渡島半島でもアイヌ集団と和人勢力が入り乱れた争乱の時代を迎えるが、織豊政権による「天下一統」後、渡島半島に松前藩、津軽地方に津軽藩が成立し、下北半島には南部藩の支配が確立する。
史料的制約から当該地域の動向については不詳な点が多いが、本稿では研究史の成果に学びながら、知られざる北方世界の戦国時代を概観したい。
エゾの内海
◆エミシの世界
三世紀後半以降、本州が弥生文化から古墳文化の時代へと移行したのちも、稲作に適さない北海道では縄文時代の生活様式を継承した続縄文時代が続いた。しかし、その社会・経済は自給自足の閉じたものではなく、続縄文人は、北は樺太、南は日本海を通じて本州とも盛んに交易を行った。続縄文人の一部は海峡を越えて南下し、渡島半島から東北地方北部にかけての地域には本州の古墳文化と続縄文文化の要素を併せ持った独自の文化圏が形成された。
ヤマト王権やその流れを汲む律令国家は、関東以北の東国(「日高見」)に住む人々を漠然と「エミシ」と呼称し、「蝦夷」や「蝦蛦」の字をあてたが、七世紀頃にはエミシの居住圏は、オホーツク海沿岸部を除く北海道の大部分から現在の宮城県中部から山形県にまで広がり、集団ごとに割拠していた。
大化三年(六四七)に越国※注1に渟足柵を設置したのを皮切りに、ヤマト王権は東アジア世界における国際関係の緊張激化という情勢下でエミシへの介入を強めていく。ヤマトは城柵とよばれる拠点を築き、エミシ集団から貢納を受ける代わりに鉄器・布などを与え、首長らを饗応するという一種の朝貢関係を結ぶが、服属を拒否するエミシは城柵を度々襲撃した。斉明天皇五年(六五九)、唐皇帝・高宗に謁見した第四次遣唐使はエミシの男女二名を献上し、エミシの国が東と北に存在し、遠いものから「都加留」「麁蝦夷」「熟蝦夷」の三種類いると発言している※注2。
ヤマト王権の東北地方への勢力拡大は沿岸航路を利用できる日本海側で進められ、斉明天皇四年(六五八)には、越国守の阿倍比羅夫率いる征討軍が軍船で日本海沿いを北上し、齶田(秋田)エミシの首長・恩荷をはじめとする沿岸拠点のエミシを降伏させ、「粛慎」と交戦している。この時、比羅夫は津軽半島西岸に比定される「有間浜」で「渡嶋」のエミシを饗応しているが、この「渡嶋」が北海道を指すのか、津軽半島を指すのかは議論が分かれている。都に帰還した比羅夫が本州以南には生息しないヒグマとその皮を朝廷に献上していること、粛慎がオホーツク文化人に近似し、樺太・アムール川下流域の少数民族ニヴフの祖先とも考えられていることから、北海道方面のエミシと接触していたことは事実であろう。
律令制度の導入を進める朝廷は支配下にある東北地方の太平洋側、現在の福島県から宮城県南部に相当する地域に陸奥国を設置し、八世紀には日本海側に越後国から分離させる形で出羽国を設置するが、北国と海上交通で結びつく日本海側の出羽は「北の果て」と認識されていたことから、出羽や津軽・渡嶋のエミシに対しては、東の異民族を指す「夷」の代わりに、北の異民族を指す「狄」の字を用いて「蝦狄」と区別して表記されるようになる。
注1:詳細な位置は不明だが、現在の新潟県新潟市東区付近にあったと推定されている。
注2:『日本書紀』巻二十六・斉明天皇五年七月条。
◆エミシからエゾへ
八世紀に入ると、律令国家は、日本海沿岸の拠点を中心にエミシ集団と個別に朝貢関係を結ぶ「点の支配」から多賀城と秋田城を拠点とした「面の支配」へと対エミシ政策をシフトする。
畿内と官道(東山道)で結ばれた多賀城を策源地にエミシ征討が進められ、八世紀後半からの「三十八年戦争※注3」の結果、「日本国」の支配領域は現在の岩手県内陸部にまで拡大し、十世紀までには北上川流域に奥六郡※注4が設置された。帰順したエミシは「俘囚」「夷俘」などと呼ばれたが、朝廷のエミシ征討はしばらく停止し、北上山地以東の岩手県沿岸部から青森県全域と秋田県東北部にかけての地域は律令国家の統治が及ばないまま「糠部」と総称され、奥六郡を支配した安倍氏の影響下でその住民もエミシと呼ばれ続けた。
注3:宝亀5年(774)のエミシによる陸奥の桃生城襲撃事件から弘仁2年(811)の文室綿麻呂による幣伊村征討まで断続的にエミシと朝廷軍の戦闘が行われたため、こう呼ばれている。
注4:胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。 現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる。
