騎兵指揮官 秋山好古

騎兵指揮官 秋山好古

史料が明かす“最後の古武士”の素顔

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「好古は同時代のあらゆるひとびとから、「最後の古武士」とか、戦国の豪傑の再来などといわれた。しかし本来はどうなのであろう」『坂の上の雲』でそう描写された、秋山好古。しかし、史料から見えてくる彼は優れた騎兵指揮官であるだけでなく戦術理論家であり、教育者であり、ときに外交官の顔も見せる多面的な人物であった。

文=長南政義(歴史群像2018年2月号)

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陸軍大将の正装をした秋山好古と、 最前線における秋山騎兵旅団本部。 左の、一人木の下に立つ人物が秋山好古。

作られた伝説

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公の一人として人気の高い秋山好古よしふるは、後世の人間の手により作られた虚像が多く、実像が正確に伝わっていない人物である。例えば、秋山について人口に膾炙している次のような挿話がある。

秋山が陸軍大学校の講義において「騎兵とは、これじゃ」と言うなり、傍らの窓ガラスを拳骨でぶち割り、拳から血が流れ出るのも構わず講義を継続した、というものだ。つまり秋山はこうすることで、敵の急所を急襲して一気に戦局の趨勢を決定づけることができる決戦兵種こそ騎兵の本質であることを伝えたのだ(司馬遼太郎『坂の上の雲』文庫新装版七)。

だが、今回筆者が調査した限りでは、このような史実は存在しない。では、秋山は正確には何と言ったのであろうか。

明治三十六年(一九〇三)十月、ロシア領ニコリスクの特別演習参観から帰国した秋山は、習志野にて演習参観の所感を述べたうえで、以下のように結んだ。

「日本の青年将校は取越し苦労が過ぎる。殊に騎兵将校には、それが大禁物である。物事に遅疑屈托してはならぬ。騎兵将校は恰も握拳で硝子戸を突き破るような意気が肝心で、それがためには、多少の怪我は元より意とするに足らぬのである」(秋山好古大将伝記刊行会『秋山好古』)。

つまり、秋山は拳骨でガラスを割っていないどころか、講話の趣旨も騎兵の本質論ではなく、騎兵将校の心構えに関するもので、騎兵将校の遅疑逡巡を諫めるために、拳骨でガラス戸を突き破る例を持ち出したに過ぎないのだ。

このように、秋山には小説家の手で作られた史実に基づかない挿話が多い。本稿では作家が描く豪傑・武士的人物としてではなく、近代職業軍人としての秋山の生涯を史料に基づいて紹介したうえで、名将の条件とは何かを考えてみたいと思う。また、文章を進めるに当たっては、秋山が持つ、単なる騎兵指揮官の枠に止まらない、教育者・戦術思想家・軍人外交官という多様な側面を紹介していきたい。

士官学校入校まで

秋山は、安政六年(一八五九)一月七日、久敬ひさたか貞子さだこの三男として伊予国松山で呱々の声をあげた。七か月の早生児であったと伝わる。秋山家は松山藩(十五万石)に家禄十石の徒士の家格で仕える家柄で、久敬は徒士目付の役職に就いていた。好古の名は、漢学に長じた久敬により、論語の「信而好古しんじていにしえをこのむ」から選んで名付けられた。

維新前の秋山は藩校明教館で読み書きを、儒者武智愛山たけちあいざんに習字を学んだ。だが、維新後、士族の生活は苦しくなった。廃藩置県後に久敬が県庁役人として勤務していた秋山家も例外ではなく、十分な学資が支払えなかった。そのため、数えで十五~十六歳の頃、秋山は学業を三年間廃業せざるを得なくなる。このため、戒田かいだ風呂屋の手伝いをするなどして書籍代を稼ぎ独学に励むこととなり、秋山は独立独行の信念を持つに至った。

明治八年(一八七五)、秋山は、無料で学べる師範学校の受験を決意し、大阪に出た。だが、募集規定では入学年齢が十九歳以上となっていて、十七歳の秋山はこの条件を満たしていなかった。そこで年齢をごまかして受験し、大阪師範学校に入学することに成功した。

翌明治九年、同校小学師範科を卒業した秋山は、月給三十円の三等訓導として愛知県立名古屋師範学校附属小学校に採用された。これは、松山出身の和久正辰わくまさたつが同校主事を務めていた縁故による。

晩年、私立北予中学校の名校長として名を馳せた秋山であるが、小学校教員時代は教壇に立ってよく鞭を振り回すことからむち先生とのあだ名があり、教師としての評判はあまりよくなかったようだ(松田秀太郎『秋山真之将軍』)。

騎兵将校への道

だが秋山は、教員採用から一年もしないうちに陸軍士官学校を受験し、明治十年(一八七七)五月第三期士官生徒として同校に入校した。そして、明治十二年、同校を卒業した秋山は騎兵少尉に任官し、騎兵将校としての第一歩を踏み出した。第三期からは秋山を含め五人の陸軍大将が輩出されている。

なお、後に陸軍大将に昇進し、「皇軍騎兵の父」と呼ばれた秋山であるが、意外にも彼が陸軍将校を志した動機や、兵科決定に当たり騎兵科となった経緯は不明である。一説には、和久正辰が士官学校受験を勧めたとも、手足の長い彼の体格が騎兵向きであったとも言われるが、確かなことは分かっていない。

少尉任官後の秋山は東京鎮台騎兵第一大隊小隊長として勤務した。ここで当時の騎兵の状況を見てみよう。

陸軍騎兵の歴史は、明治四年(一八七一)御親兵が編成されるに際し、土佐藩が騎兵二個小隊を献兵したのに端を発する。だが、建軍当初は、歩砲兵の整備に重点が置かれ、騎兵の整備は後回しにされた。そのため、明治六年、六鎮台制が敷かれ、編制上各鎮台に騎兵一個大隊(二個中隊)が置かれることとなったが、大隊が実際に設置されたのは近衛隊(御親兵の改称)と東京鎮台のみであった。この騎兵の数の少なさを反映してか、第三期士官生徒卒業生九六人中、騎兵少尉に任官した者は秋山を含めわずか三名に過ぎない。

また、騎兵の運用法も確立しておらず、騎兵隊は西南戦争に出動したものの、戦地において各部隊に分属されて、斥候・伝令・司令部護衛などの任務に従事し、まとまった単位で運用されることはなかった。

揺籃期の騎兵隊で隊附勤務をこなした秋山は、明治十五年(一八八二)一月、選ばれて陸軍士官学校出仕となり、生徒の訓育に当たることとなった。そして翌年の明治十六年二月、陸軍中尉に昇進した秋山は、陸軍士官学校教官を経て、四月に開校したばかりの陸軍大学校に入校した。第一期卒業生一〇人のうちの一人であり、騎兵将校は秋山一人であった。

ドラマ『坂の上の雲』の影響もあり、秋山が入校当初からメッケル少佐から教育を受けていたイメージが強いが、これは事実ではない。メッケルがドイツから来日したのは、明治十八年三月のことであり、秋山ら一期生は最終学年の三年次に一年間だけメッケルの講義を受けたに過ぎないからだ。メッケル着任までの野外演習(後の参謀旅行)は、フランス式で実施され、学生はフランス陸軍中将ベルトーの著書に基づいて設問に対する解答を行っていた。

なお、秋山は陸軍士官学校勤務の頃から、在京の騎兵将校の間を奔走して騎兵会を組織し、陸軍大学校の多忙なカリキュラムの間を縫っては、時々会合を開いて相互に知識を交換し、騎兵将校の団結とその能力向上の促進に寄与している。

明治十八年十二月、秋山は陸軍大学校を卒業し、参謀適任証書を授与された。翌明治十九年四月には、東京鎮台参謀に補職され、六月に騎兵大尉に昇進し、ついで明治二十年七月、フランスに私費留学する。これ以後、秋山が参謀職を務めたのは明治三十四年(一九〇一)に清国駐屯軍参謀長に在任した約二か月間のみで、あとは指揮官や学校長ポスト在職期間が長かった。

陸軍大学校卒業者でこれほど参謀職と縁のなかった人物は稀だと思われるが、それだけ秋山が指揮官・教育者としての適性を有する人物であり、騎兵が秋山の指揮・教育能力を求めていたものと推測される。

少尉時代の秋山好古。秋山が任官した明治12年(1879)の段階で、日本陸軍の騎兵は、わずか4個中隊しかなかった。

士官生徒第3期・大将昇進者の昇進表

秋山好古は、士官生徒第3期(のちの士官学校制度の改革で、旧3期とされる)で、同期生で少尉に任官したのは96名。そのうち秋山を含め5名が大将にまでなった。表は、その5名の昇進状況を大将昇進順に上から並べたものである。秋山は私費留学のために、昇進順位が落とされて大尉の時代が長いが、佐官時代は最も短期間で昇進している。日清戦争で指揮官としての戦功が評価されるとともに、その後の日露戦争に備えた平時おける教育者としての功績も評価されたからであろう。