最初の零戦隊 「十二空」戦記

最初の零戦隊 「十二空」戦記

猛き海鷲たちを育てた古巣

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太平洋戦争緒戦期、その長距離攻撃能力を以て連合軍を驚嘆させた海軍零戦隊。その背後には、数年間の実戦経験を重ね理想の戦闘機を追求し、数多くの名搭乗員をはぐくむブルペンとも呼ぶべき部隊があった。そこで、発展期の海軍航空と隊員たちは何を学んだのか?

文=古峰文三(歴史群像2018年2月号)

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(上)昭和16年夏に撮影された第十二航空隊所属の零戦一一型、どちらも十二空零戦隊の中で前年夏から活躍したベテラン機である。(下)昭和14年5月、九江から南昌攻撃に向かう十二空の九六艦戦。しかし、より長距離の攻撃には航続力不足で参加できず、新型機投入への期待が高まった。

大陸の空で

番号を持つ特設航空隊の誕生

第十二航空隊は支那事変勃発によって編成された特設航空隊の筆頭に位置する航空隊だ。

特設航空隊とは、戦時において臨時に編成されて戦地に投入される航空隊で、常設航空隊が基地近傍の地名を冠称するのに対して、番号を付与されることから番号航空隊とも呼ばれる。

番号を冠した特設航空隊の筆頭が「十二」で始まるのは、事変勃発の前年、昭和十一年(一九三六)九月に南支で北海事件※注1が発生した際に九六式陸上攻撃機(中攻)と九五式陸上攻撃機(大攻)とで第十一航空隊が編成されて、短期間台湾に展開したことによる。

陸上機部隊は十番台を用い、水上機部隊は第二十一航空隊(北支に単独派遣予定)、第二十二航空隊(南支に単独派遣予定)といった二十番台が充てられた。

また、この当時の特設航空隊は「第十二航空隊」が正式な名称で、太平洋戦争中期(昭和十七年十月以降)の特設航空隊が「第三〇二海軍航空隊」と呼ばれたように隊名の途中に「海軍」を挟まない。

昭和十二年(一九三七)七月の事変勃発と共に大陸に投入される航空隊の動員が始まる。木更津航空隊(中攻)と鹿屋かのや航空隊(中攻・艦戦)の両隊は、それまで最優先で装備の充実が進められていた陸上攻撃機隊であるため戦力が大きく、この二つの常設航空隊がそのまま外征するかたちとなり、これらをまとめて第一連合航空隊(七月十三日編成完了)を構成した。緒戦では、台湾から東シナ海を越えての「渡洋爆撃隊」として活躍した。

第十二航空隊は佐伯航空隊を基幹として旧式の九〇式艦戦六機と九五式艦戦六機、九四式艦爆一二機、九二式艦攻一二機の小型機部隊として編成され、大村航空隊を基幹として九〇式艦戦六機、九六式艦戦六機、九六式艦爆六機、輸送機一機で編成された第十三航空隊と共に第二連合航空隊(七月十五日編成完了)として運用された。

敵航空基地を破壊し、敵機を地上で撃破する航空撃滅戦の主力部隊が第一連合航空隊、制空と航空撃滅戦の補助、そして地上部隊への協力を主任務とする小型機部隊が第二連合航空隊だった。


注1:広東省北海で起こった民間日本人殺害事件。

事変初期の戦闘

事変勃発直後の航空作戦は航続距離の大きな陸上攻撃機隊、第一連合航空隊の独壇場だった。

十二空、十三空が所属する小型機部隊である第二連合航空隊の出番は、上陸作戦が進捗し内陸の飛行場が確保されてからのことになる。それまでは空母部隊からの艦上機隊が制空と地上支援、航空撃滅戦を担っていた。

このような事情で第二連合航空隊は当初、大連近郊の周水子しゅうすいしに展開し、陸軍航空隊が主担当となる北支方面で陸軍航空隊の支援を命じられていたが、上海方面への上陸作戦が開始されるとともに、八月末には上海への進出が命じられた。

上海方面では飛行場が確保された順番に秘匿名称が振られ、最初に占領、整備された公大くんだ飛行場は「甲基地」と呼ばれ、虹橋こうきょうが「乙基地」、呉淞うーすんが「丙基地」、昭和島が「丁基地」、江湾こうわんが「戊基地」、玉賓ぎょくひんが「巳基地」と呼ばれた。

第二連合航空隊は周水子から内地の大村に一旦引き上げて待機した後、上海方面に進出を命じられ、九月九日に「甲基地」へ進出を開始した※注2

しかし、「甲基地」こと公大飛行場はゴルフ場を造成したもので滑走路の状態が悪かった。十二空の装備する旧式な九〇式艦戦、九五式艦戦の離発着は何とかなったものの、十三空が装備していた当時最新鋭の全金属製単葉戦闘機である九六式艦戦は、その細い脚と小径の主車輪が災いして、進出直後に一一機が脚折損による事故で行動不能となる椿事が発生した。

それでも先遣隊の進出した九月九日当日から地上部隊の支援作戦が開始され、艦爆隊は敵砲兵陣地の攻撃に出動している。ドイツ軍事顧問団の指導によって上海前面に築かれた中国軍の防衛線は、第一次大戦式の強力な多段式防御陣地で、上海派遣軍はこの突破に大きな犠牲を払っていたからである。

そして強力な防御陣地に加えて中国空軍の活動も活発で、九月十二日から十月まで、第二連合航空隊の戦闘機隊は中国空軍戦闘機の制圧にも注力する必要があった。

こうして上海方面の地上支援と航空撃滅戦が進められる中で、陸軍航空隊の上海進出も開始された。陸海軍協定によって、敵航空基地攻撃と空中戦による航空撃滅戦は海軍の主担当、地上軍直協は陸軍の主担当との役割分担がなされたが、十月一日以降、この協定は保留され、海軍航空隊も地上軍直協に駆りだされることになった。

それほどまでに中国軍の防御線の守りが堅く、地上部隊の苦戦が続いていたからである。


注2:このとき第一連合航空隊は、鹿屋空が台北、木更津空が済州島にいた。

大陸の山地を超え空襲に向かう海軍九六式 陸上攻撃機(中攻)。
猛攻を受ける南昌 の中国軍基地。
空路で示すのは初期渡洋爆撃の例で、大村を発進した木更 津航空隊が南京を空襲して済州島に帰着、台北を発進した 鹿屋航空隊は南昌を空襲した。ともに往還10時間前後の 長時間進攻である。

連合航空隊を鍛え上げた空地協同作戦

上海前面での地上軍直協作戦は航空戦史上で画期的なものだった。

それまで実施していた敵基地への爆撃による航空撃滅戦や、後方の鉄道などの輸送路を爆撃して増援と補給を阻む阻止攻撃は、航空部隊独自の作戦として実施可能な戦いだったが、地上軍の戦闘に協力するには航空と地上との連絡が密に行われなければならなかった。すなわち、地上の陸軍部隊と海軍航空隊との間に簡潔で太いコミュニュケーションを造り上げねばならない。

例えば地上部隊が直面した目標を単純に海軍航空隊に伝えるだけでは航空作戦は合理的に行えない。上海派遣軍司令部や各師団司令部に上がった航空支援の要求を適切なかたちで航空部隊に伝えることができ、しかも即断即決で支援要請を航空隊に上げられる判断力と権限が必要だった。

このため第二連合航空隊は、飛行機搭乗員でしかも飛行隊長クラスの要員を飛行機から降ろして、海軍の無線班とともに陸軍の司令部に送り込み、航空連絡将校としての任務に当てることとなった。

航空支援の要請は前線部隊から師団司令部に上がり、そこから海軍の連絡将校によって目標と必要機数、使用兵器が後方の基地へ具体的に指示され、地上軍直協用に「二時間待機」している飛行機隊が出動した。

陣地突破戦という動きの鈍い戦闘であり、しかも支援にあたる航空基地が前線に近いこともあり、地上軍が航空支援を要請すれば最大二時間程度で目標を爆撃できる態勢が造り上げられていたのである。

これは第二次世界大戦中でも理想的なレスポンスといえ、朝鮮戦争時でも標準的なものだった。

そして近接航空支援の弊害として最も懸念された友軍への誤爆については、地上部隊が最前線を示す布標識を確実に展開するという防止策が採られていた。

そして、ともに戦う陸軍航空隊との連携も重視され、互いの連絡のために陸軍連絡機が陸海軍基地を往復する風景も頻繁に見られた。

また、大型爆弾を持たない陸軍航空隊に比べ、三〇キロ爆弾、六〇キロ爆弾、二五〇キロ爆弾、さらに事変に際して掻き集められた旧式爆弾各種を、目標に応じて使い分けられる海軍航空隊は、堅く守られた敵防御線の攻撃に向いていた。しかも、陸軍にはない急降下爆撃機である九四式艦爆の高い爆撃精度は、陸軍に強い印象を与えている。

海軍航空隊は陸上基地での航空部隊運用について、昭和七年(一九三二)の第一次上海事変で母艦機が陸上で作戦した際に集められた戦訓をよく研究し、陸上基地航空戦についてのノウハウを身につけていた。それだけでなく、今回の事変において第二連合航空隊は、上海前面の陸海軍協同で展開した近接航空支援を総括して、戦場上空の航空部隊を総合的に統制する組織の必要性を述べている。

戦場と兵力に恵まれたとはいえ、空地連絡のために権限を委譲された将校の派遣を行い、通信連絡網を築き、即応の支援態勢を作り上げただけでなく、戦場上空の統制までを意識した日本陸海軍の空地連携は、昭和十二年の時点では間違いなく世界水準を超えていた。十二空は、その中心で活動していたのである。

ただし、残念ながら太平洋戦争中の南方の戦場では、近接航空支援を行える基地環境がない場合が多く、さらに近接航空支援を十分に実施できる航空優勢も獲得しにくかったことから、日本海軍はこれ以上、空地協同のシステムを発展させることができなかった。

上海、甫東上空で航空支援中の海軍機。画面遠方の 閘北地区では火災が発生しているが、当時の写真説明 では敗走する中国軍が放ったものとされる。