紀元前3世紀末、中国に史上初の統一王朝が誕生した頃、北方の草原地帯でも騎馬遊牧民の統合が進展しつつあった。「英雄」冒頓の事績と遊牧帝国の嚆矢となった匈奴の勃興とを概観する。
文=山上至人(歴史群像2024年2月号)
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モンゴル国で発行された5000トゥグルグ切手に描かれた冒頓単于と匈奴の軍勢。冒頓はモンゴル民族の英雄のひとり、「モドゥン・シャンユ」として顕彰されている。
史上初の遊牧帝国はいかに勃興したか
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モンゴル国で発行された5000トゥグルグ切手に描かれた冒頓単于と匈奴の軍勢。冒頓はモンゴル民族の英雄のひとり、「モドゥン・シャンユ」として顕彰されている。
紀元前二〇二年、漢王・劉邦は、垓下の戦いで西楚の覇王・項羽に勝利し、秦帝国滅亡後の分裂状態を収束させて漢王朝を開いた。一方、北方の広大な草原地帯でも一大遊牧帝国が成立しつつあった。匈奴である。
現在、騎馬遊牧民といえば、その居住圏はモンゴル高原の周辺に限られるが、かつてはユーラシア・ステップの広大な草原地帯に盤踞していた。彼らによって打ち建てられた数多の強大な遊牧帝国は東アジアやインド・中東、ヨーロッパの農耕定住民の帝国や文明を相手に世界史上で大きな役割を果たしてきたが、そうした遊牧国家の基礎を築いたのが匈奴の冒頓単于である。
匈奴は、中華文明の北で独自な文化を営みながら遊牧帝国の諸機構を確立し、その遺産は後継の遊牧国家に引き継がれることになるが、匈奴自身は文字史料を残していない。そのため、冒頓の詳細な事績や匈奴国家の内実については、司馬遷の『史記』〈匈奴列伝〉、班固の『漢書』〈匈奴伝〉といった中国側史料に依拠せざるを得ないが、本稿では騎馬遊牧帝国の原型となった匈奴と建国の英雄、冒頓単于を概観したい。
中国周辺で遊牧民といえば、塞外の地、すなわち「万里の長城」の以北に居住しているイメージがある。しかし、かつての黄河流域一帯は農耕民と遊牧民が混在する世界であった。
紀元前三三〇〇年頃から「中原」と呼ばれた黄河中流域の農耕地帯では、集落の統合が進み、「邑」と呼ばれる城郭都市を中心とする集住地が形成される。前一五五〇年頃には、そうした小都市国家群の連合政権、すなわち、殷王朝が成立するが、すでにこの頃から遊牧民の存在が記録されている。
殷代の同時代史料である卜辞(甲骨文字による卜占・祭祀の記録)には、紀元前一三〇〇年代後半に「土方」という遊牧民が殷の辺境を侵略したとあり、『周礼』『易経』にも「土方」のほかに「鬼方」「馬方」という遊牧民が確認される※注1。『史記』〈匈奴列伝〉にも「山戎」「獫狁(玁狁)」「葷粥」という遊牧民がいたことが記されている。
ユーラシア・ステップ東部では、紀元前一三〇〇年頃にカラスク文化と呼ばれる後期青銅器文化の時代を迎えた後、紀元前十世紀から前八世紀頃に馬銜や馬銜留め具といった馬具が普及した結果、本格的に遊牧が開始される。
遊牧や牧畜は乾燥地帯に適応した生活形態ではあるが、家畜という不安定な生産手段に依拠する以上、補助的な生産手段としての狩猟・農耕を行いつつ、外部からの穀類や生活用品の安定的獲得が欠かせないという、脆弱で非自足的な経済形態でもある。多くの場合、遊牧民の牧地近辺には農耕を生業とする定住民がいたが、両者は必ずしも対立関係にあるわけではなく、ある種の共生関係にあった。遊牧民は黄河流域で点状に分散していた小都市国家の周辺で広く遊牧生活を営み、ヤギやヒツジ、ウマといった商品性の高い家畜に加え、乳製品や毛皮・肉を交易品として定住民から生活必需品を獲得していた。また、その移動性を活かして遠隔地の交易品を運んで定住民間の交易も媒介していたのである。
自らを「中国」と自認する中原諸国は遊牧民を蛮族と見做し、中原北方から黄河下流域にかけて分布していた遊牧民を「狄(北狄)」、中原西方から黄河上流にかけて分布していた遊牧民を「戎(西戎)」と総称していたが、紀元前一〇二四年頃、黄河支流の渭水流域に興った周が殷を滅ぼした殷周革命では、西戎の一種とされる羌が周の武王に協力しており、北狄もその首長層が周の諸侯※注2であった晋の公室と通婚するなど、遊牧民と中原諸国とは密接な関係も構築していた。紀元前七七〇年には現在の陝西省から甘粛省にかけての地域にいた犬戎が一部の諸侯と連携して渭水盆地に侵攻。周の首邑であった鎬京も陥落し、周王室は洛水流域の洛邑(のちの洛陽)に遷都する。いわゆる周の東遷である。
犬戎は、出土資料や金石文(金属や石などに記された文字資料)といった同時代史料に見える「玁狁」と推定されるが、注目すべきは、玁狁が「戦車」、すなわち、馬が牽引する戦闘用車両(兵車)を使用している点である。
注1:殷代には、殷王朝に服していない勢力を示す「邦」をその同意と考えられる「方」の字で呼称しており、それ以外にも遊牧民を「羌」と呼称している例もある。
注2:周王によって土地と人民を与えられ、地方に封じられた有力者。周王の一族や功臣が公・侯・伯・子・男の五段階の爵位を得て諸侯とされ、その支配領域を「国」と称した。

「狄」や「戎」は純粋な遊牧集団ではなく、その実態は農耕民との複合集団であり、三方を黄河に囲まれた黄河屈曲部の草原地帯、オルドス地方(中国・内モンゴル自治区南部)に二五の城郭を築いたという「義渠」や河北省南部の「白狄(鮮虞)」など、城郭都市を築いて定住化するものもいた。
春秋時代初期には、長江文明の後裔である楚、周の故地・渭水盆地から勃興した秦、現在の河北省北部から遼東地方を支配した燕など、後に戦国七雄に名を連ねる国々も中原の諸侯国からは夷狄と見なされており、我々が思うよりも、遊牧民と中原諸国との差異は小さかったのだが、紀元前五世紀以降、いわゆる戦国時代に入ると、農耕民と牧畜民との雑居状況は大きく変容していく。
春秋時代に約二〇〇か国にも達したという都市国家群は、紀元前四世紀初めには韓・魏・趙・燕・秦・楚・斉の七大国に収斂。各国は邑という「点」を支配していた都市国家の段階から、より広域な「面」を支配する領域国家へと成長し、他国の領域との境界線上に長大な土塁(「内地長城」)を建設した。その結果、定住化していた一部を除いて遊牧民の勢力は長城の外へ追いやられてしまい、前四世紀末までには、林胡・楼煩、そして匈奴といった新興の騎馬遊牧民が戎・狄に代わって台頭し、互いに争いながら中原諸国との抗争を繰り広げることになる。
さて、司馬遷は匈奴の先祖を夏后氏、つまり、史書における最古の王朝、夏王朝の苗裔としている※注3。唐代編纂の『史記』の注釈書『史記索隠』は、紀元前一六〇〇年頃に夏の桀王が殷の湯王(西湯)に敗れて追放された際、子の獯粥が父の妻妾を引き連れて北方に移住して遊牧を行うようになったのを匈奴の始まりとする。しかし前述の通り、この頃には、まだユーラシア・ステップ東部では純粋な遊牧は行われておらず、事実とは考えられない。
前八世紀頃、コーカサス地方と黒海北岸に史上初の騎馬民族とされるスキタイが勃興し、遅れて騎乗・騎射の技術もユーラシア・ステップ東部に伝播するが、紀元前四世紀頃までに匈奴は陰山山脈一帯への進出を果たすと、黄河を渡ってオルドス地方へも勢力を拡大。かつての戎・狄の勢力圏に領域を拡大していた秦・趙・燕の北方三国は機動性に優れた騎馬遊牧民の軍事力に対して「北辺長城」とよばれる、土塁の防禦ラインを築いて対抗した。
北方アジアの騎馬遊牧民の多くは、犬・狼などをトーテム※注4とする始祖伝説を持つが、モンゴル系ともテュルク系ともされる匈奴の始祖伝説は伝わっていない。匈奴の故地についてもバイカル湖周辺やオルドス地方など諸説あり、また『史記』〈匈奴列伝〉にある「獫狁」や「葷粥」とどのような関係にあるのかも明らかではないが、スキタイの騎馬戦術をいち早く習得した北モンゴルの遊牧民が中原北辺の遊牧民や半農半牧民を征服・吸収し、匈奴と呼ばれる政治的な連合体を形成したというのが実際のところなのだろう※注5。
遊牧社会は共通の始祖を持つ部族を基本単位とし、漢文史料ではこれを「種」と呼ぶが、そうした部族が複数集まってより大きな政治的連合体となると、一般に支配者集団の名称で総称された。これは後の鮮卑・高車・柔然や突厥、ユーラシアの大半を征したモンゴルに至るまで遊牧国家共通の特徴であり、文化や習俗・言語が異なったとしても所属する者はすべて支配集団の名称で呼ばれた。漢文史料ではこうした政治的連合体を「類」と表記し、七世紀編纂の『晋書』〈北狄匈奴列伝〉は匈奴を一九種の連合体とする。
当初、長城以北の騎馬遊牧民は「胡」と総称されたが、戦国時代後半には胡は主に匈奴を指す名称となり、匈奴より東、大興安嶺山脈東麓の森林地帯から遼河流域の平原にいた狩猟遊牧民は東胡※注6、燕北方の森林地帯に住む人々は林胡と呼ばれて匈奴と区別された。
注3:夏后氏末裔説は匈奴だけでなく、長江文明の後裔である楚・呉・越といった江南諸国、倭人・倭族についても同様の説が伝えられていた。蛮族として蔑んでいた周辺諸国の台頭に危機感を覚えた中原諸国が自らの優位を示そうとしたことの現れと考えられている。
注4:特定の集団や人物、「部族」や「血縁」「血統」に結び付けられた野生動物や植物などの象徴のこと。モンゴル系やテュルク系遊牧民の多くが犬や狼をトーテムとする祖先神話を持つ。
注5:沢田勲『匈奴―古代遊牧国家の興亡』(東方書店、2015年)参照。
注6:東胡は牧畜・狩猟を生業としたが、種族間のまとまりに欠け、中原寄りの遼北地帯に居住する集団とその以北に住む集団では相当な文化的差異があったとされる。

史料上で匈奴の具体的活動が初めて確認できるのは紀元前三一八年の第一次函谷関の戦いである。韓・魏・趙・斉・燕が合従して秦と戦ったが、匈奴も五か国連合軍に呼応して北から秦を攻撃したという(『史記』秦本紀)。
春秋時代まで中原諸国の軍隊は随伴歩兵を伴う戦車を編制の基本単位としていたが、戦国時代後半には動員兵力の激増と戦争の大規模化で歩兵部隊が軍の主力となっていた。戈(ほこ)に刺突の機能を兼ねた戟、弓よりも威力と射程に優れる弩(いしゆみ)を装備する重装歩兵の密集戦術は、貴族階級が搭乗する戦車同士の「一騎打ち」を過去のものとし、騎馬遊牧民の騎兵突撃に対しても一定の効果を発揮した。
それでも、中原諸国の歩兵部隊が機動力に優れる遊牧民の騎兵突撃を破砕するのは容易ではなく、秦・趙・燕の北方三か国は北辺長城を拠点に防勢戦略を採っていたが、こうした状況は紀元前四世紀末頃から急速に変化していく。紀元前三〇七年、匈奴・林胡・楼煩と接する趙の武霊王は軍制改革を敢行。群臣の反対を押し切って筒形のズボンなどの遊牧民の兵装を取り入れて騎兵を創設し、多数の遊牧民を傭兵として採用した。「胡服騎射」である。
騎兵の導入で趙は戦場で柔軟な戦術を取ることが可能となり、前二九六年には白狄(鮮虞)の後裔で現在の河北省保定市の周辺にあった中山国を滅ぼすと、林胡や楼煩を破って黄河北岸から現在の河北省北部に勢力を広げた。
こうして、趙は一躍軍事大国にのし上がるが、対抗上、他の列国も騎兵の採用に踏み切り、軍拡を続ける北方各国の軍事的圧力に塞外の遊牧民は押され気味となる。紀元前三〇〇年には、東胡で人質生活を過ごした経験もある秦開率いる燕軍が東胡に大勝し、燕は遼東半島一帯から朝鮮半島北部までを勢力下に置き、前二七二年には秦も義渠を併合してオルドス地方進出の足掛かりを得た。
