反ヒトラー派将校たちによるヒトラー暗殺とクーデター計画。その成否の鍵を握る立場にいたのが国内予備軍司令官フリードリッヒ・フロムだった。フロムはどこまで知っていたのか。残された謎とは!?
文=守屋 純(歴史群像2019年6月号)
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(上)フリードリッヒ・フロム上級大将。シュタウフェンベルクなど直属の部下が「7月20事件」の主犯であった。(中)クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐。1943年北アフリカ戦線で負傷後、クーデター派に加わる。「7月20日事件」では、総統大本営の会議室に爆弾を仕掛ける実行者となった。(下)1944年7月20日、シュタウフェンベルクが持ち込んだ爆弾の爆発で破壊された総統大本営の会議室をムッソリーニに案内するヒトラー。当日の会議はムッソリーニ来訪のため、当初の予定より30分繰り上げて開始されていた。
フリードリッヒ・フロムと「7月20日事件」の謎
第二次大戦末期の一九四四年七月二十日に発生した、ドイツ国内予備軍参謀長クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクによるヒトラー爆殺未遂事件「7月20日事件」(コラム参照)は現在まで多くの関心を引く出来事である。それだけに研究も証言も多数存在する。
にもかかわらず、現在まで、あるいは今後も永久に解明されないであろう謎も数多くのこされている。中でも注意しなければならないのは、当時、国内予備軍司令官としてシュタウフェンベルクの直属の上官であり、同時にシュタウフェンベルクの銃殺刑を命じた陸軍上級大将フリードリッヒ・フロムにまつわる謎である。
ドイツ国防軍の歴史に登場する軍人のなかでフロムは、実際に果たした役割に比べて、注目される度合いは限られたものでしかない。それは前述のように、一九四四年七月二十日、シュタウフェンベルクによるヒトラー爆殺の失敗後、フロムはベルリンの国防省のあるベントラー街の中庭で、シュタウフェンベルク等四人の陰謀者の銃殺刑を実行した。だがその後フロムは陰謀者達とのつながりを疑われ、翌年三月には銃殺されてしまう。通常フロムについて問題にされるのは以上の経過についてである。しかし実際にはフロムが反ヒトラー陰謀者であったかどうかを別としても、ヒトラー打倒のクーデター計画「ヴァルキューレ」作戦の成否に決定的な影響力をもつ存在だった。
では「7月20日事件」へのフロムのかかわりについて、今日まで残された疑問、あるいは謎とは何か。ここで列挙すると次のようになる。
その一、シュタウフェンベルクの国内予備軍参謀長着任について、フロムはどのようなかかわりがあったのか。
その二、フロムはシュタウフェンベルクの意図についてどの程度感知していたのか。
その三、なぜフロムは一度クーデター派の作成した予備軍司令官命令※注1を発令したのか。
その四、なぜフロムは独断でシュタウフェンベルク等の即決裁判と銃殺を決定したのか。
これらの謎について、これまで余り語られることのないフロムの経歴からさかのぼって考えてみよう。
注1:後述の「ヴァルキューレ」警報のこと。
Column 7月20日事件とは
ヒトラーのつくったドイツ第三帝国は、完全なナチス一党独裁体制であり、ヒトラーによってすべての案件の最終決定がなされた。それらの決定の中でも最重要なのが第二次世界大戦の開始である。そして、戦争の決断と遂行にあたって、ヒトラーと最も深い関係をもつのがドイツ国防軍と武装SSであった。
しかし国防軍のうちでも特に陸軍はプロイセン以来の伝統をもち、必ずしもナチス思想には迎合せず、また、大戦の遂行にあたっても、専門家として、ヒトラーと意見が衝突することもあった。特に1943年のスターリングラードでの敗北以後、陸軍の中にはヒトラー式統帥への深刻な疑問が生じた。
だが独裁国家である以上、平和的な手続きによるヒトラーの追放もしくは排除は無理である。そこで暗殺の試みが軍人達によって計画され、実行された。それが1944年の「7月20日事件」である、東プロイセンの総統大本営(ヴォルフスシャンツェ=「狼の巣」の意味)の作戦会議室で、ドイツ国内予備軍参謀長クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐が、書類カバンに仕掛けた時限爆弾によってヒトラーの爆殺を図った事件だ。
この企てはヒトラーが奇蹟的に軽傷で済んだことによって失敗におわる。しかし実行者であるシュタウフェンベルクは現場の様子からヒトラーの死を確信し、ベルリンにもどると、そこで、かねてからの計画であった「ヴァルキューレ」警報を発して、クーデターによる権力奪取をはかった。しかし、すぐにヒトラーの健在が明らかとなり、シュタウフェンベルクとその共謀者たちの目論見は外れ、数時間もたたずにシュタウフェンベルク等は銃殺の憂き目に会う。