オーストラリアの第二次大戦

オーストラリアの第二次大戦

東西の戦域で枢軸軍と戦った英連邦国家

32 min read

「流刑植民地」として出発し、英連邦の一国として独立したオーストラリアは第二次大戦における地中海戦域で英軍を助けて独伊軍と戦い、太平洋戦域では祖国の命運を賭けて日本軍と対峙した

文=山崎雅弘(歴史群像2017年12月号)

【タイトルバック画像】

派遣先のパレスチナ・ガザにおいて行進するオーストラリア陸軍第9師団の将兵(1942年12月)。上左は北アフリカ戦線に展開中のオーストラリア空軍第450飛行中隊のP40「キティホーク」(1942年8月)。500ポンド爆弾を懸吊している。上右はオーストラリア海軍の重巡『オーストラリア』(1935年、パナマ運河通過中の撮影)。

連合軍の一翼を担ったオーストラリア軍

日本から太平洋を南下して赤道を越えた場所にある、南半球のオセアニアで最も大きな陸地を持つオーストラリアは、隣接するニュージーランドと共に、第一次と第二次の両世界大戦で、連合軍の一員として戦いに参加した。

太平洋戦争で日本軍が戦った相手は、大陸の中国軍を別にすれば、第一にアメリカ軍、第二にイギリス軍、第三にオランダ軍だったが、それに次ぐ第四の敵軍と言えたのが、英連邦(コモンウェルス)の構成国であるオーストラリア軍だった。

とりわけ一九四二年初頭に、連合軍の東南アジア一帯を統括する上級司令部「ABDA(アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア)連合司令部※注1」が解消されてからは、オーストラリアはアメリカ軍にとって太平洋戦域で最も頼りになる「友軍」として日本軍部隊と激闘を繰り広げた。

また、オーストラリア軍は一九四一年十二月に太平洋戦争が勃発する以前には、英連邦軍の増援としてヨーロッパの地中海戦域に部隊を送り込み、本国と同じ砂漠などの乾燥した戦場への適応性を活かして、ドイツ軍やイタリア軍とも激戦を重ねた。

それでは、第二次大戦期におけるオーストラリア軍の戦いは、どのようなものだったのか。それを知る前に、まずはオーストラリアという国の成り立ちと、開戦までの同国の歴史について、簡単に振り返ってみたい。

戦争中における同国とイギリスの関係が変化していった理由を理解する上で、イギリスの植民地として始まったオーストラリアの歴史は無視できないからである。


注1:ABDA連合司令部(American-British-Dutch-Australian Command)は、1942年1月3日に設立され、同年2月25日に解消された。

第二次大戦勃発までのオーストラリア

大英帝国の流刑植民地だったオーストラリア

第二次大戦勃発時オーストラリアの総面積は、七六八万六八四八平方キロメートルで、当時の日本領土の約一一 ・五倍に当たる。その陸地の大半は雨量の少ない砂漠地帯や乾燥した草原地帯であり、総人口六九二万九六九一人(一九三八年の統計)の国民の約半数は、南東部の五大都市(シドニー、メルボルン、ブリスベーン、アデレード、ホバート)と南西部のパースに集中して居住していた。

また、イギリス系白人が渡来する以前には三〇万人以上が同大陸で生活していたといわれる先住民(いわゆるアボリジニ)の人口は、白人による虐殺と迫害によって、一九三〇年代後半には七万ないし八万人ほどにまで減少していたと見られている。

この巨大な大陸に、西欧人が関心を示したのは、十五世紀後半のことだった。十七世紀に入ると、当時アジア一帯で権益の拡大を図っていたオランダの東インド会社がこの周辺の探検に乗り出し、一七六八年には、イギリス人のジェームズ・クック海軍少佐が当時「新オランダ」と呼ばれていた大陸の東部に上陸、東海岸一帯の領有権を宣言した。

一七七五年から一七八三年のアメリカ独立戦争で、それまでイギリスの植民地だったアメリカ東部の一三州が独立を果たすと、イギリスは代替の「流刑植民地」を早急に見つける必要に迫られた。流刑植民地とは、イギリス本国の刑事犯を収監し、安価な労働力として活用するための海外流刑地で、農産物や天然資源を獲得したり、余剰生産物を輸出する市場として活用する、一般的な植民地の概念とは性格を異にしていた(ただし、アメリカは完全な流刑植民地ではなく、一般的な植民地としての機能も有していた)。

この時、白羽の矢を立てられたのが「新オランダ」大陸だった。一七八八年一月十八日、初代総督アーサー・フィリップ海軍大佐と、第一陣の流刑囚七七八人、そして警備に当たる海兵隊員とその家族約七〇〇人を乗せた船団が大陸に到着し、一八二四年に「オーストラリア※注2」と改称される同大陸での白人社会の歴史がスタートした。

やがて、流刑植民地という形態そのものが、英本国やオーストラリアで倫理的観点から論議の的になると、英政府は一八五七年に流刑制度の廃止を決定し、一八六八年にはイギリスからの囚人の流入が完全に停止した。

イギリスが、第一船団の到着から流刑の廃止までにオーストラリアへと送り込んだ囚人の数は、一六万人に達していた。ただし、同大陸では一八五一年に金鉱が発見されてゴールドラッシュが起きたこともあり、自発的な移民の数は流刑の廃止後も増加し続け、東部のニューサウスウェールズ以外にも自治植民地が次々と開拓されていった。

「流刑植民地」としてのスタート。1788年、フィリップ総督や第一陣の流刑囚を載せてボタニー湾に入港した「第一船団」。手前は『HMSシリウス』。左方に『プリンス・オブ・ウェールズ』などの囚人輸送船が見える。
「流刑植民地」に始まったオーストラリアだが、1868年に囚人の流入を停止し、以後は通常の移民活動が続いた。居住に適さない砂漠地帯は西部に多い。そして1901年には6自治植民地から成るオーストラリア連邦が成立した(ノーザンテリトリーは1911年まで南オーストラリアの一部。以後政府直轄地となり、1978年に自治権を獲得する)。