龍馬暗殺の真実

龍馬暗殺の真実

苛烈化する政争が引き起した悲劇の深層

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幕末史において常に取り上げられる一大事件「龍馬暗殺」。彼は、なぜ殺されたのか。その命を下したのは誰か。古くて新しい問題を政治史のなかに読み解く

文=桐野作人(歴史群像2017年12月号)

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坂本龍馬と、明治期の新聞に掲載された近江屋の暗殺現場。未だ畳の上にかすかに血が残っている。


プロローグ 近江屋事件勃発

醤油商を営む近江屋は京都の目抜き通り、河原町通蛸薬師下ルにある。主人は井口新助といい、目の前にある土佐藩の河原町藩邸の御用達もつとめていた。

慶応三年(一八六七)十月九日、入京した坂本龍馬ははじめ、河原町三条下ル車道の材木商酢屋の中川嘉兵衛宅に滞在した。酢屋には海援隊本部が置かれていた。そして同月十三日の大政奉還に前後して、龍馬は近江屋に移った。このような潜伏の態をとったのは、龍馬が前年一月の伏見寺田屋事件※注1のため、幕府のお尋ね者だったからであり、また目の前の土佐藩邸に入れなかったのは脱藩士の身上だったからである。そのことが龍馬の運命を暗転させてしまった最大の原因だった。

運命の日は十一月十五日夜八時頃だった。龍馬は訪ねてきた陸援隊隊長の中岡慎太郎と談じ込んでいた。そこへ見廻組の与頭佐々木只三郎が表戸を叩いた。同組の今井信郎(のぶお)の「刑部省口書」(後述)によれば、佐々木は松代藩と書かれた手札(名刺)を差し出し、龍馬に面会を求めたという。異説によれば、「十津川の士と答え、ついで名札を出し、才谷先生に遭んことを乞ふ」たともいう(「高松太郎書簡」)。

こののち、見廻組の三人が階段を駆け上がって二階にいた龍馬と慎太郎に斬りつける。龍馬はほぼ即死で、慎太郎は重傷で二日ほど息があったが、十七日に絶命した。また龍馬の従僕山田藤吉(とうきち)も巻き添えを食って殺害された。

龍馬暗殺の実行者はいうまでもなく、佐々木只三郎率いる見廻組数人である。これは揺るぎない定説だといえる。その意味では、龍馬暗殺には大きな疑問はない。ただ、事件直後は見廻組ではなく、新選組の犯行だと考えられていた。とくに土佐藩と薩摩藩の関係者はそう確信していた。

そこで本稿では、次のような視点から龍馬暗殺事件を検証してみたい。

①なぜ事件直後から新選組説が流布するようなボタンの掛け違えが起きたのか

②見廻組説は一次史料でどこまで確認できるのか。言い換えれば、見廻組隊士だった今井信郎の証言に信用性はあるのか。

③見廻組に龍馬暗殺を指示した人物ないしは団体はだれなのか。また、そこにはどのような政治的背景があったのか。

④龍馬暗殺は当時の京都政局にどのような影響を与えたのか。とくに土佐藩、薩摩藩と旧幕勢力である会津藩・桑名藩、そして強硬派幕臣の動向を検証する。

以上のような視点による検証から、龍馬暗殺の実態や深層を浮き彫りにしてみたい。


注1=慶応2年(1866)1月23日に、伏見奉行林忠交の配下が、坂本龍馬を捕縛しようと伏見の旅館寺田屋を襲撃した事件。

公家と寺社の街だった京都は、幕末には数多くの藩邸が立ち並び、巨大な政治都市となっていた。