ドイツ海軍再建の舞台裏

ドイツ海軍再建の舞台裏

エリッヒ・レーダーの見た夢

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第一次大戦後、ドイツ海軍のトップの座に就いたレーダーは大艦隊建造計画を推し進めたが、その夢は実現しなかった。レーダーはいかなる海軍を目指したのかそして、なぜ計画は挫折したのか

文=守屋 純(歴史群像2019年4月号)

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ハンブルクのブローム・ウント・フォス造船所で進水する戦艦「ビスマルク」とドイツ海軍の再建を指導したエーリッヒ・レーダー。


第一次大戦の敗戦とレーダーまでのドイツ海軍

第一次世界大戦前、ドイツ帝国海軍(カイゼルリッヒェ・マリーネ)は英国海軍に次いで世界第二の大海軍だった。その余りに急激な海軍拡張によって英国側の反感を買い、これが大戦勃発の一つの重大な原因となる。

しかし、大戦でドイツ海軍はほとんど出撃せず、大きな海戦は一九一四年のヘリゴラント沖、一九一五年のドッガーバンク、そして一九一六年のジュットランド沖しか起こらなかった。そしてどの海戦でも決定的な成果をあげることなく、その後水上艦艇は軍港内に逼塞して無為をかこつ有様だった。

大戦末期の一九一八年十月、不意の出撃命令に憤慨した水兵達がキール軍港で反乱をおこし、これがドイツ革命の発火点となった。臨時政府は連合国側に休戦を申し出て、十一月十一日に終戦となる。連合国側はドイツに対して、正式の講和条約調印までの間、ドイツ艦隊を乗組員とともにスコットランド北方の泊地スカパ・フローに抑留した。

そして一九一九年六月二十一日、ヴェルサイユ条約の内容に憤慨したドイツ側は、一斉にキングストン・バルブ※注1を開けて自沈して果てた。ドイツ帝国海軍の、この短い歩みは一体何だったのか、と考えこまざるを得ない。

旧ドイツ海軍の運命がどれほど劇的だったにせよ、第一次世界大戦の結果、戦勝国側から押し付けられたヴェルサイユ条約は、ドイツの新海軍保有に関し、次のように厳重な制約を設けることになる。

①保有認可艦艇=旧式戦艦六/軽巡洋艦六/駆逐艦一二/水雷艇一二。潜水艦保有は禁止。

②海軍兵員=将校・下士官・兵合計一万五〇〇〇人。うち将校は一五〇〇人。服務期間は将校が最低二五年、下士官兵が最低一二年。現在服務中の海軍兵員は四十五歳までの服務を義務付けられる。新規の兵員補充数は総定員の五パーセント以内とする。

③新規の代艦として建造する艦艇は次の排水量以内とする。

装甲艦※注2:一万トン/軽巡洋艦:六〇〇〇トン/駆逐艦:八〇〇トン/水雷艇:二〇〇トン

ヴェルサイユ条約の規定はあくまでもドイツ海軍の外枠であって、実際の法的位置付けは一九二一年に制定された「国防法」による。それによると、ドイツ海軍(ライヒスマリーネ)は国軍(ライヒスヴェーア)と同じく共和国大統領の統帥権に従い、直接には国会に責任を負う国軍大臣の指揮下に入るものとされた。


注1:キングストン弁。船舶の船底にある取水口の弁。ボイラーの冷却水やバラスト水を確保するためのもの。

注2:装甲艦(Panzerschiff)はドイツがヴェルサイユ条約に則って第一次大戦後に建造した1万トン級の軍艦で、英国はこれを「ポケット戦艦」(Pocket Battleship)と呼んだ。戦艦(Schlachtschiff)は『ビスマルク』級からで、その前のヴェルサイユ条約破棄後に建造された『シャルンホルスト』級を英国は巡洋戦艦(Schlachtkreuzer)に分類した。

1918年11月下旬、スカパ・フローに集結したドイツ艦隊。右は敷設巡洋艦『ブレムゼ』。この後、1919年6月21日に全74隻のうち54隻が自沈した。