戦略・作戦分析 朝鮮戦争【前編】

戦略・作戦分析 朝鮮戦争【前編】

北朝鮮軍の侵攻と国連軍大反攻

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大日本帝国の降伏で第二次世界大戦が終結したあと統治者を失った朝鮮半島にアメリカとソ連が進駐。北緯三八度線を境に南と北に統治機構を樹立した。だが、北朝鮮軍の韓国侵攻で始まった朝鮮戦争が半島全域を戦火で包み込むこととなる。今も終わらぬ戦争の原因と序盤の戦いを読み解く。

文=山崎雅弘(歴史群像2019年4月号)

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(右上)北朝鮮建国を後押ししたソ連のスターリン。(左)韓国の李承晩大統領。 (左上)韓国を支援したアメリカのトルーマン大統領。

いまだ終戦を迎えていない六九年前の戦争

二〇一八年六月十二日、シンガポールのセントーサ島で、史上初となるアメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首脳会談が行われ、ドナルド・トランプ米大統領と金正恩朝鮮労働党委員長(国の最高指導者)は会談の後、朝鮮半島の非核化や、朝鮮戦争で死亡したアメリカ兵の遺骨と遺体の回収などに言及する共同声明を発表した。

これに先立ち、同年四月二十七日には、北緯三八度線の非武装地帯にある共同警備区域(JSA)の板門店で、韓国の文在寅大統領と金正恩委員長による南北首脳会談が行われ、内外の報道陣が見守る中、韓国と北朝鮮のトップが手を繋いで軍事境界線(MDL)をまたぎ、双方の「領土」を行き来する光景が世界中に報じられた。

この二つの出来事は、二〇一七年後半に東アジアで発生した、北朝鮮の核弾頭搭載可能な弾道ミサイルの発射実験に起因する一触即発の緊張状態を緩和し、中国とロシアの仲介もあって、東アジアにおける新たな戦争の危機はいったん回避された。

だが、第二次世界大戦の終結から五年後の一九五〇年に勃発した「朝鮮戦争」については、一九五三年に調印された「休戦」の状態にあり、いまだ「終戦」を迎えていない。前記した共同警備区域と軍事境界線は、ほぼ北緯三八度線の位置で朝鮮半島を横断する休戦ライン上に位置しており、朝鮮戦争がまだ終わっていないことを内外に示している。

そのため、米朝関係の改善と南北朝鮮の融和ムードが、次なる段階としての「朝鮮戦争の講和と平和条約締結」に結びつくのではとの期待が、韓国国内では広がっている。

戦後の日本では、朝鮮戦争は経済的復興の重要な起爆剤となる「朝鮮特需」を生んだ出来事として記憶されてきたが、国際社会にとっても、この戦争は第二次大戦以後の歴史における大きなマイルストーン(里程標)となる出来事だった。

朝鮮戦争は、アメリカを中心とする「自由主義陣営(西側諸国)」と、ソ連および中国が頂点に立つ「社会主義陣営(東側諸国)」が対決した最初の戦争であり、地球規模での東西冷戦の構図を決定づける戦いでもあった。この戦争以後、東西両陣営はそれぞれの支援する政権や武装勢力を戦わせる「代理戦争」を、ソ連崩壊(一九九一年)までの約四〇年にわたって、東南アジアやアフリカ、中南米などの世界各地で繰り広げることになる。

では、なぜ朝鮮半島は大日本帝国の敗戦後に北と南の二つの国に分断され、いかなる理由で朝鮮戦争は勃発したのか。そこでは、どのような戦いが繰り広げられ、アメリカやソ連、中国はどんな形でこの戦争に関与したのか。そして、東西冷戦時代の初期に発生した朝鮮戦争は、なぜ今も「終戦」を迎えられずにいるのか。

本稿では、朝鮮戦争を扱う記事の「前編」として、発生に至る朝鮮半島の政治情勢と、戦勝国として進駐した米ソ両国の思惑、そして一九五〇年六月の北朝鮮軍による韓国侵攻開始から同年十月の中国(中華人民共和国)の軍事介入開始までの軍事作戦の様相を、政治と戦略、作戦の各観点から読み解いてみたい。なお、中国の軍事介入から一九五三年の休戦までの朝鮮戦争における政治と戦略、作戦については、次号掲載の「後編」で詳しく分析する。

日本降伏後の朝鮮と米ソ両軍の朝鮮半島進駐

政治的空白が生じていた終戦直後の朝鮮半島

一九四五年八月十五日に、天皇がポツダム宣言受諾を全国民に知らせるラジオ放送(いわゆる玉音放送)を行った時、朝鮮半島はいまだ大日本帝国の統治下にあり、第二次大戦末期にポーランドのワルシャワやチェコのプラハでドイツ占領軍に対して行われたような「自力で独立を回復するための武装蜂起」は、朝鮮では発生しなかった。

日本による朝鮮統治は、一九一〇年八月二十二日に大日本帝国と大韓帝国の間で調印された「日韓併合条約(韓国併合に関する条約)」に基づく韓国併合(同年八月二十九日)以来、三五年にわたって続けられたが、一九一九年三月一日に朝鮮各地で発生した独立を求める民衆蜂起(三・一運動※注1)のあと、朝鮮における独立要求の民族運動は下火となり、大規模な蜂起を実行可能な抵抗組織が事実上消滅していたからである。

その背景には、日本の官憲による朝鮮の民族主義者の苛烈な取り締まりに加えて、一九一九年八月に第三代朝鮮総督となった斎藤実海軍大将が行った「文化政治」と呼ばれる融和的な統治政策が存在した。斎藤は、一九二〇年に下達した「朝鮮民族運動に対する対策」の中で、朝鮮の貴族や両班(王朝時代の支配階級)、儒生(儒学者)、富豪、教育家、宗教家を懐柔し、資金を与えて親日団体を作らせるなど、日本の統治者に都合のいい「親日派」を、朝鮮社会の枢要部に増やすことを指示していた。

こうした政策の効果もあり、大日本帝国が政治支配力を失った時、朝鮮にはそれに取って代われる全国規模の政治勢力が存在せず、政治力の空白状態が生まれていたのである。

だがそれでも、朝鮮の人々は八月十五日を「大日本帝国の支配からの解放」、つまり独立の回復(光復)として喜び、同日夜には「朝鮮建国準備委員会(建準)」と称する政治組織がソウルで設立された。この組織を指導したのは、第二次大戦中には一時期「親日派」として活動した経歴を持つ、呂運享という民族運動家で、各地方都市でも同様の朝鮮人による準行政組織が次々と誕生していった。

それから半月後の九月六日、各地の独立準備委員会の代表者がソウルの京畿女子高校で一堂に会し、米英ソ中などの主要国が承認してくれることを期待して「朝鮮人民共和国」臨時政府の樹立を宣言した。だが、呂運享が終戦前に日本の朝鮮総督府の幹部(政務総監の遠藤柳作)と秘密裏に接触し、行政権の移譲で密約を結んでいたことから、戦勝国はこの動きに「親日派の策謀」という不信感を抱き、朝鮮半島を北緯三八度線で分割して、アメリカとソ連が南北それぞれの地域を軍政統治下に置くという方針が定められた。


注1:1919年3月1日に京城(現ソウル)や平壌など朝鮮各地で発生した、朝鮮人による独立要求デモ。同年5月までに1500回を越えるデモが行われ、延べ200万人が参加したといわれる。警察の取り締まりと日本軍の武力弾圧で、死者7500人と負傷者1万6000人、逮捕者4万6000人を出して、運動は沈静化した。

北朝鮮と韓国を分かつのは国境線ではなく、朝鮮戦争の休戦協定 1953年7月27日締結)によって設定された軍事境界線で、その線の両側はおのおの幅2㎞の非武装地帯となっている。休戦の約1か月後には、軍事境界線を海上にまで延長した北方限界線(NLL)が設けられた。こうした朝鮮半島の分断をもたらしたのは、約70年前に始まった朝鮮戦争だった。