敗色濃厚となったイタリアは降伏し連合軍側として戦いに参加することとなった。一方ドイツは、失脚したムッソリーニを祭り上げて傀儡国家を作る。政治的に分断された大戦後半のイタリア半島の様相を政治と軍事の視点から見る。
文=山崎雅弘(歴史群像 2019年2月号)
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(写真上 左)連合軍に降伏したイタリア王国の首相ピエトロ・バドリオ。(写真上 右)イタリア国王のヴィットリオ・エマヌエーレ三世。(写真下)イタリア社会共和国軍の山岳兵部隊とムッソリーニ。兵士の中に少年兵がいるのがわかる。
敗戦国イタリアと戦勝国イタリア
第二次世界大戦において、イタリアは敗戦国だったのか、それとも戦勝国なのか。
統領(ドゥーチェ)ベニト・ムッソリーニの君臨したイタリア王国は、第二次大戦の前半期には日独伊三国同盟の一角を占め、ヨーロッパ戦域ではドイツの同盟国として戦っていた。ドイツとの同盟関係が事実上スタートした一九三六年十一月一日にムッソリーニが述べた「ベルリンとローマの枢軸(ASSE)」という言葉は、のちに英語圏でも独伊両国と日本を表す用語「枢軸(AXIS)」として広く使われた。
そのため、イタリアも日本やドイツと同様、第二次大戦では「枢軸陣営の敗戦国」だったと理解する人が少なくない。
だが、そのイタリア王国は、戦況が枢軸陣営の劣勢へと傾いていた一九四三年九月八日に連合軍と休戦し、十月十三日には「枢軸同盟国」であったはずのドイツへ宣戦布告、一九四五年七月十五日には大日本帝国にも宣戦布告を行った。
これにより、イタリア王国は対日戦では形式上の「戦勝国」となったが、ヨーロッパでの戦後処理においては、戦前のエチオピア戦争と第二次大戦前半の侵略行為に伴う賠償金を、エチオピア、アルバニア、ユーゴスラヴィア、ギリシャ、ソ連に支払わされるなど、事実上の「敗戦国」という扱いを受けていた。
第二次大戦の途中で枢軸国側から連合国側に寝返ったイタリア王国は、終戦時には戦勝国陣営に属していたものの、同国の侵略で被害を受けた国々からの抗議により、完全な「戦勝国」とは認められなかったのである。
そして、戦後の国際秩序の枠組みとなった国連(正確な訳語は「連合国」、一九四五年十月二十四日に正式発足)では、イタリアは旧枢軸陣営の同盟国だったルーマニアやハンガリー、フィンランドと同じく、一九五五年まで正式な加盟国になれなかった。
以上のように、イタリアが敗戦国か、戦勝国かという問題の答えは不明瞭だが、歴史の構図をさらに複雑にしているのは、第二次大戦の後半期に、イタリア王国とは別の「イタリア」が、独立国として存在していた事実だった。
それが、一九四三年七月に失脚したムッソリーニをドイツが傀儡指導者として担ぎ出し、ドイツ占領地域で建国した「イタリア社会共和国(RSI)※注1」である。
その建国から四か月後、イタリア王国がドイツに宣戦布告を行い、イタリア半島でドイツ軍対連合軍の戦いが本格化すると、イタリアは実質的にドイツの支配下にある北部のイタリア社会共和国と、南部のイタリア王国および北部の山岳地帯や都市、町に拠点を置く反ファシストのパルチザン(ゲリラ)勢力による対立の舞台となった。
つまり、第二次大戦後半のイタリア半島では、ドイツ軍対連合軍の熾烈な戦争の傍らで、南北に分断された「二つのイタリア」が、大国の思惑に翻弄されながら、それぞれの戦いを繰り広げていたのである。
本稿では、一九四三年七月のムッソリーニ失脚と、それに続くイタリア王国と連合国の休戦から、一九四五年四月のイタリアにおける事実上の戦争終結までの一年九か月に光を当て、イタリア半島で繰り広げられた複雑な戦いの様相を、軍事と政治の両面から読み解いてみたい。