終戦間際の昭和20年7~8月、アメリカ空母任務部隊は東北および北海道を空襲した。その圧倒的な航空攻撃に晒された1隻の『松』型駆逐艦の生き残るための最後の戦い。
文=手塚正己(歴史群像2019年2月号)
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昭和20年7月14日、津軽海峡にて空母『エセックス』攻撃隊の猛攻を受け、艦尾に被弾した『柳』。
簡易型駆逐艦『柳』の竣工
太平洋戦争後半期の昭和十九年(一九四四)四月二十八日に、『松』型(丁型)一番艦の一等駆逐艦『松』が竣工した。ガダルカナル島を巡る攻防戦以降、多数の駆逐艦が喪われた。この損失を補うため終戦の年の六月までに、『松』型とこれに多少手が加えられた『橘』型の戦時急造簡易型駆逐艦が三二隻建造された。
この二つの型は基準排水量一二六二トン、速力二七・八ノット(時速約五一キロ)、航続距離三五〇〇浬(約六五〇〇キロ)と、これまで第一線で活躍してきた『陽炎』型や『夕雲』型のような甲型駆逐艦と比べると、小型、低速で、航続距離も短いが、公試運転や諸試験では極めて良好な成績を収めている。また、極力簡易化を図って半年に満たない短期日で建造されたのにもかかわらず、有力な対空と対潜兵装、主機械と罐の交互配置法など、護衛駆逐艦としての活躍を大いに期待された。
造船の元技術少佐だった福井静夫は、丁型とも称された簡易型駆逐艦について、次のように評価している。
「丁型は、後期になると、その簡易化がいっそう進み、ほとんど戦標船(戦時標準船)のように平面と直線で構成された船体になった。ところが、心配された(水の)抵抗の増加は、あまり無かったのである。これなどは、それまでの造船の常識からは想像もできないことだった。戦時下の特殊な状況下だからできたことであり、予想外の成功でもあったのである」
昭和二十年(一九四五)一月初旬、野村治男中尉(海兵七十二期)は大阪に所在する藤永田造船所に艤装員として着任した。岸壁には艤装作業中の『松』型駆逐艦十四番艦である「第五四七九号艦」が繋留されていた。
野村中尉は早速、大熊安之助艤装委員長(海兵六十期・少佐)に着任の挨拶をした。大兵な風体と「大熊」という厳つい名字とは正反対に、大熊艤装委員長の対応は物柔らかで、「おう、よく来た」と笑顔で迎えてくれた。
竣工間近になって、野村中尉は大熊艤装委員長から、「水雷の予定だ」と告げられた。ということは、水雷科の分隊長になって、魚雷戦の指揮を執るということだ。
野村は「いやあ、わたくしは戦艦に乗っていたので、水雷の経験はどうも……」と言った。その言葉通り、実施部隊で艦船勤務を経験したのは戦艦『武藏』一隻で、配置は機銃群指揮官を一ヶ月半と、続いて『武藏』が沈没するまでの九か月、甲板士官の職にあった。したがって水雷については、兵学校で初歩的なことを教わっただけだ。本来は水雷に限らず、砲術、航海、通信などの科長になるためには、各術科学校に入校して、専門分野別に必要な知識や実地技能を習得することになっていた。
だが野村のように、戦争途中で任官してから、ほとんどを実施部隊で過ごした者たちは、学校に行く機会を与えられなかった。そこで彼は艦長に、「水雷学校に行かせてください」と申し出た。「学校に行くのはいいけれど、もう何日もしないで艦は完成してしまうぞ」と言われたが、許可された。
野村中尉は横須賀の水雷学校で三日間、対潜学校で三日間、教官一人、学生一人の、即席教育を受けたが、この程度の学習で水雷長の職務が勤まるとは思えない。それでも、当座に必要な号令だけは、頭に叩き込むようにして覚えた。だが艦に乗り組んでみると、心配は杞憂に終わった。下士官の掌水雷長や射手など、開戦以来のベテランが就いてくれたおかげで、即席水雷長でも実務に支障を来すようなことはなかった。
