ウラーソフ将軍とロシア解放軍

ウラーソフ将軍とロシア解放軍

ドイツ軍とともにスターリンと戦った元ソ連軍将兵

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独ソ戦のさなか、膨大な数のソ連軍将兵がドイツ軍の捕虜となった。そして彼らの中には、様々な理由から、スターリンとボリシェヴィズムの打倒を望む者が多数いた。敵であるドイツ軍とともにスターリンの軍隊と戦った将兵たちの物語。

文=山崎雅弘(歴史群像2018年12月号)

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(上)ロシア解放軍の訓練。右はロシア解放軍の指導者ウラーソフ(写真提供:アフロ)。(下)ロシア解放軍の記章。キリル文字での略称「POA」の下に青い十字がデザインされ ている。


ドイツ側で第二次大戦を戦った元ソ連兵

 一九三九年九月に第二次世界大戦が勃発した時、ソ連軍とドイツ軍は、前月に締結された独ソ不可侵条約に基づく同盟関係にあり、両軍は東西からポーランドへと攻め込んだ。

 その後、一九四一年六月の独ソ開戦から一九四五年五月のベルリン陥落まで、ソ連軍とドイツ軍は敵同士として死闘を繰り広げたが、ドイツ軍の捕虜となったソ連兵のうち、一〇〇万人以上がドイツ軍の義勇兵として戦いを続けた歴史は、あまり知られていない。

 彼らの多くは、母国であるソ連のスターリン独裁体制を倒し、出身地であるロシアやウクライナ、カフカス(コーカサス)、中央アジアなどをボリシェヴィキ(ソ連共産党)の支配から解放するという新たな大義を胸に抱き、ドイツ側へと寝返った。しかし、当時のドイツで独裁的な権力を握るヒトラーは、ロシア人をはじめとするソ連のスラブ人やアジア人を下等人種として蔑視しており、信用できる同盟者になりうるとは考えなかった。

 その結果、ソ連兵の捕虜で多数編成された義勇兵部隊「オスト(東方)大隊」は、ソ連軍を敵とする東部戦線ではなく、主に米英連合軍と戦う西部戦線へと移送され、一九四四年六月のノルマンディー海岸などの戦闘に、ドイツ軍の補助部隊として投入された。

 そして、ドイツの敗色が濃厚となった一九四四年の末、ロシア人のソ連兵捕虜の多くが参加する大規模な反ソ義勇兵部隊「ロシア解放軍(ROA※注1)」の編成がようやく許可されたが、時すでに遅く、ごくわずかな戦いに参加しただけで終戦を迎えてしまう。

 スターリン体制からの出身地の解放という、ソ連邦構成国出身の義勇兵たちの願いは、ドイツ上層部の無理解と猜疑心、人種差別思想によって、はかなく潰えたのである。

 太平洋戦争の序盤、藤原岩市少佐の特務機関「F機関」がイギリス連邦軍のインド兵捕虜を日本軍の味方として取り込み、イギリス支配からのインド独立という大義を与えて、チャンドラ・ボースを司令官とする「インド国民軍(INA)」を編成した史実は、日本でもよく知られている。だが、ヒトラーとドイツ政府上層部は、そのような政治工作に頼らなくても、軍事力だけでソ連を倒すことは可能だと理解していた。

 それでは、独ソ開戦以後の東部戦線において、ソ連兵捕虜のドイツ側への寝返りという現象はどのようにして始まったのか。ドイツ側は、彼らをどんな形で処遇し、いかなる訓練を行ったのか。ソ連邦構成国出身の義勇兵部隊は、どれだけ編成されたのか。そして、ドイツの敗北で行き場を失った「裏切り者」を、スターリンはどう扱ったのだろうか。


注1:ROA=Russkaya Osvoboditelnaya Armiya

ドイツ軍に協力するソ連兵捕虜の増加

ドイツ軍の人手不足とヒヴィス(義勇補助員)の編入

 一九四一年六月二十二日の「バルバロッサ」作戦開始以来、ドイツ軍は各地で連戦連勝を重ね、戦線は瞬く間に東へと移行していった。前進するドイツ軍の将兵を驚かせたのは、侵略者であるはずのドイツ軍部隊を「解放者」と捉えて、花束や「パンと塩(スラブ人が客人をもてなす際の風習)」で迎える村人たちの姿だった。

 一九三〇年代の後半、ソ連国内ではスターリン体制下の秘密警察(NKVD:内務人民委員部)による粛清の嵐が吹き荒れ、思想や言論の自由が完全に奪われた恐怖支配の重い空気に包まれていた。農村や工場でも、スターリンの個人崇拝が強要され、ソ連共産党の方針への疑問や批判を口にした者は、即座にシベリアの強制収容所へと送られていた。

 それゆえ、ドイツ軍がソ連兵を蹴散らして西から進撃してきた時、彼らは自分たちの生活が少しはましになるのではないかと早合点し、ドイツ兵を歓待したのである。

 独ソ開戦後の最初の数か月間で、数十万人のソ連兵がドイツ軍に投降して捕虜となったが、その中にもスターリン独裁の恐怖政治に強い嫌悪感を抱く者が少なからず存在した。ヒトラーとナチス政権の幹部たちが、スラブ人を下等人種と見なす差別思想を共有している事実を知らない彼らは、自発的にドイツ軍への協力を申し出て、スターリン体制という「共通の敵」を持つドイツ軍と一時的に手を結び、祖国を圧制から解放したいと考えた。

 一方、ソ連領内へ侵攻したドイツ軍は、最初の四〇日間で被った二〇万人もの人的損害のうち二割程度の補充しか受けておらず、特に輸送などの後方部隊では慢性的な人手不足に直面していた。そのため、各師団は捕虜として捕らえたソ連兵のうち、ドイツ軍に協力的な態度を見せる者を信用し、上層部の正式な裁可を受けることなく、軍属のような形で非公式に部隊へと編入して、後方での荷役労働などに従事させる方策をとった。

 これらのソ連兵は、ドイツ語で「志願協力者」を意味する「ヒルフスヴィリゲ」を省略した「ヒヴィス※注2」という呼称で呼ばれたが、陸軍総司令官や陸軍参謀本部の全くあずかり知らない形で、各部隊の創意工夫によって自然発生的に誕生した存在だった。

 ヒヴィスの導入は、あくまで各部隊レベルで非公式に行われたため、いつ、どの部隊が最初に捕虜のソ連兵をヒヴィスとして「採用」したかは判然としないが、ドイツ中央軍集団の第4軍第43軍団所属の第134歩兵師団は、開戦翌月の七月の時点で既に、ヒヴィスを後方人員として活用していたとの記録が残っている。

 他の師団も同様に、部隊の後方要員の人材不足を解消するための手っ取り早い手段としてヒヴィスを採用し、やがて対ソ戦に従事するドイツ軍の師団でヒヴィスが働くことは常識となっていった。ヒヴィスに与えられた仕事は、最初は荷物運びや調理人、トイレの掃除人、トラックの運転手、将校の世話人など、非武装の後方任務だったが、後に武器を与えられて後方警備の任務にも就くようになった。


注2:Hiwis=Hilfswillige

ドイツ軍では、協力的なソ連軍捕虜に物資輸送や将兵の世話などの後方支援を非公式に任せ ていた。彼らヒヴィスは、やがて義勇兵部隊へと発展していく。写真の胸にマークを付けている 中央と右端の2人の男性がヒヴィスである。