約140個師団、兵員およそ300万もの大軍が投入された一大作戦はヒトラーの東方への野望に基づいて実行された。だが、その裏側にはドイツ陸軍の思惑も絡んでいた。
文=守屋 純(歴史群像2018年8月号)
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(上)「バルバロッサ」作戦の正式な発令となった1940年12月18日付の 「総統指令第21号」。(下)1941年6月、「バルバロッサ」作戦についてヒトラ ーに説明する陸軍首脳。向かって右端はフランツ・ハルダー陸軍参謀総長。
「バルバロッサ」作戦をめぐる疑問
一九三三年一月三十日、ヒトラーは大統領ヒンデンブルクから首相に指名されると、誰もが予想しなかったようなスピードと呵責なさで独裁体制を築き上げる。だが、この強制的なナチス化(グライヒシャルトゥング)に染まらず、独立性を保っていたのは国防軍、特に陸軍であった。
ヒトラー以下、ナチ党指導部と陸軍は一種の「持ちつ持たれつ」の関係であり、第二次世界大戦が始まり、相次ぐ勝利を重ねていくと、ヒトラーと陸軍の威信は競い合うように上昇した。その頂点に達したのが一九四〇年六月の対仏戦の勝利だったが、その後の戦略方針をめぐって、この両者の間で齟齬が生じるようになる。その極端な例が対ソ戦、すなわち「バルバロッサ」作戦をめぐる、ヒトラーと陸軍の競合である。
ドイツの対ソ攻撃「バルバロッサ」作戦については、これまで山のような研究がなされ、様々な説が唱えられてきた。しかし、作戦の成立と執行、そして展開について、振り返って検討を試みると、通説では説明し切れていない問題点が発見される。例えば、一九四〇年六月の対仏戦勝とほとんど同時に、陸軍は兵力の東部移動に着手している。これは、まだヒトラーが次の戦略、すなわち対英戦についてはっきりした決断を下す前の、しかもヒトラーのあずかり知らぬ所で進行していたことなのである。
定説では、対ソ戦に備えた兵力の東部移動は、同年七月三十日のベルクホーフでの軍首脳に対するヒトラーの言明、すなわち来春に対ソ戦を決行する、という言明が合図になったとされている。これは広く利用されている参謀総長フランツ・ハルダーの『作戦日誌』の記述に基づいた説明であるが、陸軍というか参謀本部では、そのずっと前から、隠語名「オットー」によって兵力の東部移動を開始していた。
ハルダーは戦後の証言で以下のように述べている。
「ヒトラーは陸軍部内に、ロシアへの冒険に反対する専門的意見が有力になってきているのを、自分の諜報機関を通じて知っていた。そこで、そのような意見を拒絶する腹づもりだった。私がいくら我が方のロシアに関する知識と情報が不足している、と力説しても、ヒトラーはただ黙殺するだけだった。ヒトラーはロシアの人口力を全然評価せず、逆に、緒戦での迅速かつ致命的な一撃によって、ロシア人は憎むべきボルシェビキの暴力支配打倒のために立ち上がるだろう、と言い張った。そしてロシアの物的能力については、ロシアの機械化部隊など、すべて時代遅れのもので、恐るべきロシアの軍事力などというのは、ロシア側の誇張されたプロパガンダを信じているからだと」。
要は、戦後に何度も旧ドイツ軍関係者の口から繰り返された説明、すなわち国防軍は対ソ戦には懐疑的だったが、ヒトラーが無理やり強行したのだ、という説の代表例である。
だが、対仏戦勝当時の陸軍、特にハルダーの執った措置を見ると、決してヒトラーの独断というだけでは説明がつかない現象が多く見受けられるのだ。

本当にソ連膨張への対抗措置か?
これ以外にもう一つ、ヒトラーによる対ソ戦決定の原因として挙げられるのは、スターリンによるバルト三国およびルーマニア領ベッサラビアの併合である。これは一九四〇年六月から八月にかけて行われたことで、確かにここで問題としているドイツ軍の東部移動も、六月から実施されている措置なので、この移動はソ連のこの動きに対応したものだという見方もできる。だが、このようなことではなく、ドイツ軍の東部への移動は他の理由によるものだった可能性がある。
対仏戦が終結した六月二十五日時点でのヒトラー自身の言明によると、「東方で積もっている対立も、恐らく今後一〇年間で解決されるべき問題である」と述べている。そしてヒトラーは今後の国防軍の立て直しについて、次のように陸軍総司令官ブラウヒッチュに指示したという。以下は当時OKW(国防軍最高司令部)の国防軍統帥局次長のヴァルリモントがハルダーに伝えた事柄である。
「別の使命をご覧ください。もうすぐ、陸軍は無くなりますよ」。
ヴァルリモントはただ、これが一九四〇年七月中旬の事としか述べていない。OKW、特に国防軍統帥局長アルフレート・ヨードルとハルダーは犬猿の仲で、事あるごとに対立していたが、次長のヴァルリモントとは友好的だった。
さて、この時の彼のハルダーへの伝言とは、ヒトラーによる国防軍再編、すなわち陸軍を大幅に縮小して、対英戦に備えて海軍と空軍の増強に人員や資材を振り向ける、というものだった。その主な内容は、「現有の一二〇個師団を三五個に減らし、これからの戦争は海軍と空軍の仕事とする」というのであった。確かにこれを見れば、ほとんど陸軍の解体に近い。陸軍側が危機感を持ったとしても当然であろう。
ハルダーによる対抗措置
これに対してハルダーは巧妙な策を用いて、ヒトラーからの指示を骨抜きにしてしまう。六月二十三日、ハルダーは先手を打って、自分の方からヒトラーに陸軍改編案を提出して裁可を勝ち取ったのだ。その内容は、征服した西欧諸国には六五個師団を残置し、七個師団をノルウェーとデンマークに置き、一五個師団を東部──占領した旧ポーランドのこと──に移動させるというのである。
ところがこの東部移動の一五個師団というのが問題で、これはゲオルク・フォン・キュヒラー指揮の第18軍であって、二十一日までフランスにいた精鋭部隊だった。そしてハルダーがこの部隊を選んだのは、キュヒラーが戦前は東プロイセン駐屯の第1軍管区司令官として、東部の状況に通じている、という理由だった。
