数多くの領邦に分裂していたドイツは19世紀後半にドイツ帝国として統一され、ヨーロッパの強国となる。その過程で繰り広げられた数多の戦争は、ドイツとその陸軍の発展に多大な影響を与えた。プロイセン王国からドイツ帝国、そしてワイマール共和国を経てヒトラー政権樹立までのドイツとその陸軍の関係、そして両者の歩みをたどる。
文=守屋 純(歴史群像2018年8月号)
プロイセン王国と陸軍の戦争
近代ドイツの祖、プロイセン
明治の日本が近代化の模範として選んだドイツ※注1は、実は一八七一年(明治四)に成立した国で、統一国家としての歴史は浅い。にもかかわらずドイツは、統一されると同時にヨーロッパの覇権をにぎる強国になった。それは、ドイツ統一が、対デンマーク(一八六四)、対オーストリア(一八六六)、対フランス(一八七〇~七一)の三つの戦争での勝利によって成し遂げられたことによっている。話し合いによらず、戦争によって長年の懸案が解決されたということ自体に、ドイツの辿ってきた歴史的経過と、こののち辿る方向が表れている。
ドイツ統一の中心となったのは、プロイセン王国である。さかのぼれば、中世の時代にドイツの中央を流れるエルベ河を越えて、西ヨーロッパから東方にドイツ人が征服と植民を行ったことが始まりと言える。のちに、かつての神聖ローマ帝国の選帝侯だったブランデンブルク辺境伯が統治するブランデンブルク選帝侯国と、十字軍をきっかけとして成立したドイツ騎士団領から生まれたプロイセン公国が合併してプロイセン王国が誕生した。ホーエンツォレルン家が王位を世襲するようになったが、王号を国際的に認められるのは一七〇一年のことである。
プロイセンは、エルベ河からバルト海沿いの東西に点在する領土からなる貧しい農業国だった。征服と植民によって生まれた国であるから、支配層は「ユンカー」と呼ばれる地主貴族で、彼らは農奴を使役して穀物生産を主とする農場経営を行っていた。このユンカー層が国王に仕えてプロイセンの官僚と軍人職を独占していた。これは近代的な国家元首と軍人・官僚との関係ではなく、封建的な主従関係というべき性格のもので、身分的に厳しく格付けされていた。例えば軍人は将校が貴族で、下士官・兵は徴募された農奴や傭兵出身者であった。
当時のヨーロッパは絶対王政の時代で、中世の封建騎士は没落して、国王の家臣になっていた。王は官僚制と常備軍を備え、国家統一と領土の拡大に邁進した。その代表例がブルボン家のフランスと、ハプスブルク家※注2の神聖ローマ帝国(オーストリア)である。
注1:「ドイツ(Deutsch)」はゲルマン語の「民衆」を意味する言葉が語源とされる。ゲルマン語系の言語を使用するゲルマン人の民衆をこう呼び、その住んでいる地域を示した。正確な呼称は「ドイッチュラント」。ただし、日本では「独逸」や「独乙」という当て字で表してきた経緯があり、「ドイツ」を 統一国家の名称として表記する
注2:ドイツのアルザス系の貴族であり、中世では政略結婚などによって勢力を拡大した。スペイン=ハプスブルクやオーストリア=ハプスブルクなどの系統があり、14世紀前半以降、神聖ローマ帝国の帝位を独占した。



これらの大国に比べて、遅れた貧しい小国であるプロイセンが強国へと発展したのには、第二代国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世(在位一七一三~四〇)──通称「兵隊王」──の努力によるところが大きい。「兵隊王」の異名のとおり、この王は当時ヨーロッパで流行したロココ趣味の宮廷生活などには目もくれず、ひたすらプロイセンの富国強兵に励んだ。国民には質素倹約と勤勉を強制して一代で国庫を倍増させ、常備軍を設置して、軍隊を当時としては破格の八万人にまで増強している。ドイツ人といえば、「規律厳守」と「質実剛健」のイメージが抱かれるようになるのも、この王の時からである。
しかし「兵隊王」は、節約家にありがちな支出に対する抵抗感から、常備軍を使っての戦争はほとんどしなかった。この王を継いだのがフリードリヒ二世、すなわち「大王」である。彼は王位を継ぐと、父が残した遺産である強大な常備軍を用いて対外戦争に打って出る。オーストリア王位継承戦争における「第一次シュレージェン戦争」(一七四〇~四二)で、プロイセンは勝利し、次の「第二次シュレージェン戦争」(一七四四~四五)にも勝って※注3、地下資源の豊富なシュレージェンの併合に成功する。しかしその後の「七年戦争」(一七五六~六三)※注4は長期戦となって苦戦し、あわや滅亡かという時、敵のロシア女帝エリザヴェータの死により形勢逆転。その後は周囲のオーストリア、ロシアと友好を保ちポーランド分割を行った。こうして大王一代でプロイセンは領土を倍増させたのである。
フリードリヒ二世はドイツ史上最高の名君とされるだけでなく優れた指揮官でもあり、絶対主義時代の常備軍による戦争の頂点を極めた軍人でもあった。しかし、プロイセンはあくまで農奴制に基づくユンカーが支配する国家で、プロイセン軍の兵卒は徴発された農奴と傭兵であり、逃亡や反抗は日常茶飯事だった。これを防ぐため、プロイセン軍では過酷な軍律が定められ、このことがまた、「軍国プロイセン」の名を高からしめることになった。
注3:第一次、第二次ともにオーストリア継承戦争における戦いで、オーストリアとプロイセンがシュレージェンの領有をめぐって争った。
注4:オーストリア継承戦争でプロイセンによって奪われたシュレージェンの領有をめぐって行われたオーストリアとプロイセンの戦争。フランスやイギリスなども 参戦して大戦争となった。プロイセンが勝利し、シュレージェンの領有が認められた。

