台湾沖航空戦

台湾沖航空戦

その戦いと空前の錯誤の実相

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決戦計画「捷号」作戦に基づき、基地航空部隊の総力を挙げて迫り来る米軍を迎撃せんとする日本軍。 その一大航空戦の経緯を追うとともに史上最大ともいえる戦果の誤報が生じた背景を検証する。

文 = 手塚正己(歴史群像2019年4月号)

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(上)日本海軍第二航空艦隊司令長官の福留繁中将。(下)米第3艦隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将。(中)1944年10月14日、台湾沖航空戦において空母『エセックス』への雷撃を行う天山艦攻。

台湾沖航空戦前夜の動き

フィリピンに迫り来る米軍

昭和十九年(一九四四)六月二十日、「マリアナ沖海戦」における日本海軍の敗北で、サイパンとビアクの二島が奪われた。これによって、日本が本土防衛と戦争継続に不可欠な領域と定めた「絶対国防圏」が崩壊し、新たに次期作戦の基本方針の策定が急がれた。

そこで七月十八日から二十日までの間、大本営海軍部(軍令部)は陸軍部と共同研究を行った結果、二十一日付で「聯合艦隊ノ準拠スベキ当面ノ作戦方針」が、嶋田繁太郎軍令部総長(海兵三十二期・大将)より豊田副武聯合艦隊司令長官(海兵三十三期・大将)に提示された。

二十六日、大本営陸海軍部は次期決戦を「捷号」作戦と名付けた。「捷」には、「戦いに勝つ」、すなわち「勝ち戦」の意味がある。作戦は敵の来攻方面に応じて、四つの地域に区分された。捷一号=比島(フィリピン)方面、捷二号=九州南部、南西諸島及台湾方面、捷三号=本州、四国、九州方面及状況ニ依リ小笠原諸島方面、捷四号=北海道方面、である。

絶対国防圏の崩壊により、大本営海軍部は次期決戦計画として「捷号」作戦を立案した。南はフィリピンから、北は北海道(千島列島も含む)までを範囲とし、それぞれ捷一号から捷四号の区分で決戦を行うこととされた。

この頃、米軍は日本本土上陸に最適な進攻目標の選定作業に入っていた。陸軍と海軍の戦略的思考の違いや、それぞれの思惑を秘めての討論が、時と場所を変えて重ねられた。その結果、これまで予定していた十一月十五日のミンダナオ島(フィリピン)上陸を、約一か月繰り上げて十月二十日にレイテ島上陸作戦に変更した。

九月十五日以降、米軍はパラオ諸島南西部のペリリュー島と、モルッカ諸島のモロタイ島に、次いで十七日にペリリュー島に隣接するアンガウル島に上陸した。

194311月ごろより、米軍は2つのルートで反攻を開始した。日本は絶対国防圏を形成して守りを固めたが、サイパン島があるマリアナ諸島と、ニューギニアのビアク島が米軍に占領されたことで絶対国防圏は崩壊。フィリピンへの進攻の前哨戦として、台湾航空戦が生起した。

九月二十一日、第三艦隊司令官のウィリアム・ハルゼー大将は、フィリピン攻略の第一歩となるルソン島攻撃に隷下の高速空母部隊を投入した。マーク・ミッチャー中将が指揮する第38任務部隊(TF38)の第一、二、三群(第四群は燃料補給のため後方へ移動中)は、正規空母七隻、軽空母六隻から、のべ四百数十機の艦上機をルソン島に向けて発進させ、午前九時三十分から午後六時までの間、マニラ地区とクラーク航空基地を空襲した。日本軍の被害は陸上だけでなく、マニラ港在泊の艦艇にも及んで、駆逐艦一隻と輸送船一四隻が沈没し、七隻が大・中破という甚大な損害を被った。またルソン島西岸に沿って北上中の「マタ二七A」船団はのべ一五〇機の攻撃を受け、海防艦一隻と輸送船六隻のすべてが沈没または大破した。

翌二十二日も、午前七時三十分から九時三十分にかけて、のべ二一〇機がマニラ地区に来襲、大量の軍需物資が炎上喪失し、多数の艦艇が損害を受けた。

一日おいた二十四日、約二〇〇機からなる艦載機が、フィリピン中部のセブ島、カラミアン諸島のコロン湾、ルソン島南部のレガスピーを襲撃し、レイテ島のタクロバンなどに三日に及ぶ空襲を実施した。艦船の損害は沈没だけでも艦艇七隻と船舶三一隻を数えた。

この間、九月二十三日にアンガウル島から転進した米陸軍は、日本軍が撤退した直後のウルシー環礁を無血占領した。ウルシー環礁はフィリピンの東方一四〇〇浬(約二六〇〇キロ)に位置していて、米海軍にとってはレイテ島上陸を支援する前線補給基地として最適な地点にあった。ウルシー占領後、ただちにシービーズ(海軍設営部隊)が艦船泊地として利用する各種施設の整備を開始した。こうして、ウルシー泊地は太平洋戦争末期に米海軍の重要な補給基地として活用されることとなった。

194412月、洋上を行く米第38任務部隊。先頭の空母は軽空母『ラングレー』、その後ろにエセックス級正規空母が続く。(下図)第38任務部隊は、17隻もの空母を運用する、米海軍が誇る強力な機動部隊だった。