傲慢なイメージから、「鉄仮面」呼ばれた宇垣纒は、聯合艦隊参謀長として太平洋戦争を戦い、のちに第五航空艦隊司令長官として特攻作戦を指揮した。そして終戦の日、隊員たちとともに特攻出撃する。評価が分かれるその人物像と、8月15日の出撃の様子を、彼の手による戦時日誌『戰藻錄』を元にひも解く。
文=手塚正己(歴史群像2022年2月号)
さまざまな宇垣纒の人物評
宇垣纒は昭和期の戦争を語る時、必ず登場する海軍将官である。その彼にまつわる話題には、ある種の悪評と終戦の日の行動に対する非難が、付いて回る。
明治二十三年(一八九〇)二月十五日に、宇垣は岡山県赤磐郡(現岡山市)の農家に生まれた。宇垣一成陸軍大将(陸士一期)、宇垣莞爾海軍中将(海兵三十九期)、宇垣環海軍大佐(海兵五十期)らは近郷の同族だが、縁戚関係にはない。
宇垣は岡山中学校を卒業後、明治四十二年(一九〇九)九月十一日に海軍兵学校四十期生として入校、四十五年七月七日に卒業した。その後の主な経歴を拾ってみると、海軍大学校(甲種二十二期)卒業を皮切りに、聯合艦隊主席参謀、戦艦『日向』艦長、軍令部第一部長、第八戦隊司令官を歴任し、昭和十六年(一九四一)八月十一日に聯合艦隊参謀長に補職された四か月後に、米英蘭との開戦を迎えた。

海軍部内での宇垣は、作戦立案と指揮能力に優れた実務家であり、戦略と戦術の権威として高く評価されていた。
昭和十六年に聯合艦隊旗艦『長門』で高射長の任に就いていた千早正隆少佐(海兵五十八期)が、宇垣参謀長のことを書いている。
「宇垣は日本海軍の戦略・戦術の大家であるとの自信に溢れ、顔を少しそらし気味にして、私の鼻先を通り抜けるのが常であった。『お前のような若輩は邪魔になる、どいておれ』と言わんばかりであった」
士官の間では宇垣のことを、陰で「鉄仮面」とか「黄金仮面」と呼んでいた。常に仮面を被ったように無表情で、冷血漢の印象を接する人たちに与えたことから、そんな綽名を頂戴したのだそうだ。
千早の宇垣評を続ける。
「(宇垣の態度は)私だけだと見ていると、自分の幕僚に対しても大して変わりがなかった。艦橋で参謀が参謀長のサインをもらうため、書類とか信号文とかを持って行くのを見ていると、起案文を見るより先にどこから直してやろうかと、身構えている感じであった。彼が笑ったのを見たことは皆無であり、喜怒哀楽を顔に出さない人であった」
聯合艦隊旗艦となった『武藏』がトラック島泊地に停泊していた頃、露天甲板で作業をしていた乗員の多くが、山本五十六司令長官(海兵三十二期・大将)の姿をしばしば見かけた。乗員だった一人が、筆者にこんなことを話してくれた。
「山本長官が目の前を通ろうとしたので、慌てて作業の手を止めて敬礼をしました。そしたら長官は、ビシッとした敬礼を返してくれました。長官が答礼してくれたと、私たちは一日中、その話題で持ちきりでした。ああ、嬉しいな、そんな気持でね」
それでは、宇垣参謀長はどうだったのだろうか。訊いてみた。
「あの人は駄目です。こっちが敬礼しても、不機嫌そうな顔してそっぽ向いちゃう」
自分より階級が下の士官の敬礼だと、「おうッ」と頭を後ろにチョコッと反らすだけで、滅多に答礼などしない。時によっては、相手の敬礼の仕方が気に入らないと苦虫を嚙みつぶしたような顔をグイッと向けて、睨みつけたという。
宇垣が部下や同僚から疎まれたという話は、数多く残っている。「レイテ沖海戦」で第二艦隊(栗田艦隊)の参謀長だった小柳冨次(海兵四十二期・少将)は、第一戦隊の宇垣司令官について、「艦橋であれこれディスカッションしていると、宇垣なんかいろいろうるさいので、問題があれば、(栗田)長官に作戦室にきてもらいました」と言っている。
昭和十九年四月以来、『大和』に乗組んでいた都竹卓郎少尉(海兵七十二期)は幕僚補佐として、野田六郎先任参謀(海兵五十一期・中佐・のちに侍従武官)とともに、宇垣司令官のもとで勤務することになった。都竹少尉の仕事は先任参謀附のようなもので、参謀室には彼の机も用意された。その都竹は、野田が仕事の不手際からなのだろうか、しばしば宇垣司令官から怒鳴られているのを目にした。
都竹は自身が接した宇垣について、次のように語っている。
「宇垣司令官からは、一度も怒鳴られたことはありません。書類を持って行っても、『おうッ!』と迎え入れてくれました。私が中尉に進級した時も気づいてくれて、『中尉になったか、おめでとう』と声を掛けられたり、揮毫した色紙をもらったり、とても可愛がっていただきました」
宇垣には海軍軍医になったばかりの博光という一人息子がいて、都竹の一学年上になる。彼は新米少尉の都竹と息子を、重ね合わせていたのかもしれない。
宇垣は家庭を大切にした。離れ離れに軍務に就いている博光には、父親ならではの訓戒を交えた手紙を頻繁に送った。昭和十五年(一九四〇)春に疫病で妻知子が他界した時は、哀惜の念を籠めた日誌や手紙をしたためている。また同十七年(一九四二)六月に、「ミッドウェー海戦」から内地に帰投した折、愛犬「エリー」が死んだことを知らされると、『主待たでエリーは逝きぬ青葉陰』と句作した。この十七文字からは、「冷血漢」という形容とは似ても似つかない情が読み取れる。