第一次大戦後、国際的に孤立していた中国国民党政府は敗戦国ドイツに軍事顧問団の派遣を要請
ドイツ陸軍軍人・OBによる中国軍への指導がはじまった……知られざる独中軍事提携の実態
文=山崎雅弘(歴史群像2018年8月号)
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(上)1938年の武漢戦を前にして、ドイツ陸軍の装備で身を固め、整列した中国国民党軍の兵士たち。(下)ゼークトに次いで顧問団団長を務めたファルケンハウゼン。写真は1940年頃のもの。彼は第二次上海事変などで中国軍の指揮を執って日本軍と戦った。
中国軍の背後にいたドイツ陸軍の軍人たち
1937年7月7日の蘆溝橋事件をきっかけに、中国北部で始まった日中戦争(発生当初の日本側呼称は「北支事変」)は、1か月後に中部の上海へと飛び火し、日本政府は9月2日に呼称を「支那事変」へと改めた。
北部の戦域では日本軍が各地で連戦連勝し、占領地域を大きく拡大したが、中部の上海戦域では逆に、統制のとれた中国軍部隊の頑強な抵抗に阻まれ、同地の日本軍は苦戦を強いられた。ドイツ軍と同じヘルメットを被り、ドイツ製の銃火器を装備した彼らは、ドイツ陸軍の現役・退役将校によって訓練された「ドイツ式師団」で、1920年代の後半から、訪中したドイツ軍事顧問団によって段階的に鍛え上げられた精鋭部隊だった。
そして上海で日本軍と戦う中国軍部隊を、ドイツ軍の顧問が指揮する局面もあり、日本軍の苦戦の背景にはドイツ陸軍軍人の影が存在した。
第二次世界大戦は、全体として日本・ドイツ・イタリアの「枢軸国」と、イギリス・フランス・アメリカ・ソ連の「連合国」による対決という図式で語られる。しかし日中戦争の始まった1937年の中国では、地域と期間が限定的だったとはいえ、ドイツ陸軍の軍人が、同じ枢軸陣営の日本陸軍および海軍陸戦隊と戦うという出来事が発生していたのである。
なぜ、このような事態が生起したのか。ドイツ陸軍の現役・退役軍人たちは、どのような経緯で中国軍のミリタリー・アドバイザーという役割を担っていたのか。
本稿では、日中戦争序盤の戦況にも重要な影響を及ぼした中国軍のドイツ軍事顧問団について、その創設経緯とドイツ・中国双方の思惑、軍事顧問団の活動の具体的な成果などを、ドイツ陸軍の知られざる裏面史として俯瞰的に概説してみたい。
ドイツと中国の接近と協力関係の樹立
孤立していたドイツと中国の接近
1914年8月に第一次世界大戦が勃発した時、ドイツは中国の山東半島南海岸の青島と、それに隣接する内陸部から成る「膠州湾租借地」(日清戦争後の1898年に権利獲得)を自国の植民地として保持していた。だが連合国側で参戦した日本軍が同年11月にこれを攻略し、1919年のヴェルサイユ講和条約で、ドイツは正式に同租借地の権利を喪失した。
戦争終盤の1917年には、中国(中華民国)も日本と同じく連合国の一員として参戦したことから、第一次大戦が終結した時点ではドイツと中国は敵対関係にあった。
しかし第一次大戦では「戦勝国」に名を連ねたとはいえ、中国もいまだ統一国家として全土が平定されておらず、北部と中部では「軍閥(私兵を有する地方権力者)」が割拠して勢力争いを繰り広げていた。
1911年に始まった辛亥革命の立役者である孫文も、中国国民党のトップをめぐる袁世凱との権力闘争に敗れていったん下野し、1917年9月には南部の軍閥と手を結んで「広東軍政府」と呼ばれる地方政府を樹立していた(1919年10月に再び「中国国民党」へと改組)。
こうした状況の中、孫文は巻き返しに必要な軍事力の強化を進めるため、欧米列強との提携を模索したが、イギリスやフランスなどの連合国は、中国の「一地方政府」でしかない孫文の国民党政府を相手にしなかった。そこで孫文は、第一次大戦に敗れて帝国主義的な国家戦略を放棄したドイツが、列強の中では提携の相手国として最善だと考え、1922年からドイツ政府に協力関係の樹立を打診した。

孫文がドイツに提示した構想は、中国における兵器産業の育成と国軍の近代化で専門家のアドバイスを受け、ドイツ製兵器を購入するのと引き換えに、タングステンなどの天然資源をドイツに安定供給するというものだった。これに対しドイツ側は、兵器などの支払いは現金でしか認めないとして消極的な態度を示し、ドイツ軍人を軍事顧問として中国へ派遣してほしいという要請も「ヴェルサイユ条約で禁じられている」として断った。
失望した孫文は、ドイツと同様に国際社会で孤立していた北の隣国ソ連から、軍事顧問として60人のソ連軍人を招き入れ、軍組織の再編などを行った。しかし1925年3月に孫文が「革命いまだ成らず」との言葉を遺して死去し、後継者として蔣介石が頭角を顕すと、頓挫していた中独の提携構想が再び日の目を見ることになる。
中国国民党の軍事部門「国民革命軍」の総司令官である蔣介石は、1926年から南東部と中部の軍閥を倒して配下に置きながら北進を続け、中国全土の統一作戦(北伐)を進めていった。だが彼は根強い反共(反共産主義)思想の持ち主で、翌1927年には国民党内の内紛に乗じて党内の共産党シンパを一掃し、ソ連人の軍事顧問も退去させた。
そして蔣介石は、再びドイツ軍人とドイツ産業界に軍事面での提携を呼びかけた。
